浄音上人750忌に寄せて(2/2ページ)
西山浄土宗洞雲寺住職 磯部順基氏
そればかりでなく、孫弟子に当たる鵜木の光明寺で教えを弘められた行観上人をはじめ、紀州梶取総持寺を開山した明秀上人は自身の書物『無量寿経講録』の中で、今では現存しない『大経鈔』を引用し、「西谷上人云く…」とその偉大さを伝えている。西谷の新光明寺の跡は現在では明確にはわからないが、鳴滝の西谷山法興院専念寺(浄土宗西山禅林寺派)が浄音上人の御本廟地、墓所にされている。
この度、六五〇回忌と七〇〇回忌のパンフレットを拝する機会を得た。七〇〇回忌は昭和45年(1970)、第七十七世長空晋龍上人の時に厳修され、森英純師が文面の筆を執っている。また、六五〇回忌は大正9年(1920)、第六十九世真空諦承上人の代に厳修され、「眞空」「一行」が執筆している。この「眞空」は関本諦承師であり、「一行」は三浦貫道師である。「眞空」は「西谷浄音上人傳」を記し、「一行」は「西谷の教旨」を執筆している。
また、近年、岐阜の清閑寺から発見された龍空義道の記された『浄土西山西谷附法祖裔』の中にある派祖浄音法興上人にも知られていない記述がある。これは、稲田廣演師も論文で紹介しているが、これまで、西谷新光明寺は浄音上人の建立であろうとされて来た。しかし、慈円僧正の弟子である求佛上人(本願惠奬阿闍梨)の草創とあり、境内の伽藍を詳細に記している。本堂には丈六の阿弥陀仏を安置し、毘沙門堂には伝教大師御作の多門天王を安置していた。また、西山上人が銘文を入れた当麻曼陀羅を掲げる「曼陀羅堂」、近衛基平の廟所である「深心院」が存在していた。ここで浄音上人は講義を重ねていた様子も伺える。
原文を引用すると「常念の称名は松風のごとく、『観経』演説の園には善導一師の解釈を用ひ、前後の師解を交へず、善導一家の解行を判釈す。曼陀羅堂には供式を行じ、当座道場、佛体を拝謁す。また深心院には法華三昧を修したまふ。これすなはち上人の徳名、四海に誉れたり」とある。西山上人が大切にされた善導大師の『観経』解釈を受け継いで、浄音上人は甚深の『観経』解釈を伝授されていた様を知ることができる。また、法式を大切にし祖師に酬いる念を深められたのであろうと推察される。
時の帝である後嵯峨天皇や亀山天皇も浄音上人に帰依が篤く、特に総本山光明寺の第六世に在世の際に禁中(皇居)に御所蔵の御賛されている「法然上人自画像」を結縁のために御下賜いただきたいと亀山天皇に懇願された。この願いは文永元年(1264)7月25日に叶い、亀山天皇より粟生の総本山光明寺へ御下賜になられた。『綸旨』は第七世の観性上人が授かり、「法然上人自画像」と共に総本山光明寺の宝物庫に大切に保管されている。
第十七世の法灯を受け継いだ、総本山永観堂禅林寺には浄音上人が唐橋侍従に宛てた『鎮勧用心』が保存されている。この『鎮勧用心』は西山上人の御法語だが、和字ではなく漢文体で記されている。これは総本山永観堂禅林寺の第四十三世、養空霊徹上人の代に寄贈されたもので、法孫を経由して美濃の立政寺に伝来されたものを、西山上人五五〇回忌にあたり、第六十世の攀空泰凖上人の代に総本山永観堂禅林寺に納められた。その由緒の奥書を記された澹空旭應上人も総本山永観堂禅林寺の第六十二世の法灯を受け継いでいる。
第十七世の法灯を受け継いだ総本山永観堂禅林寺には浄音上人が唐橋侍従に宛てた『鎮勧用心』がある。そして、第六世の法灯を受け継いだ総本山光明寺には亀山天皇に嘆願して下賜された「法然上人自画像」が『綸旨』と共にある。この機縁に多くの方々の目に触れていただきたいものだ。