浄音上人750忌に寄せて(1/2ページ)
西山浄土宗洞雲寺住職 磯部順基氏
この度、七五〇回忌を迎えられる浄音上人は、房号は「浄音」、諱は「法興」で浄音房法興と号す。粟生の総本山光明寺、東山の永観堂禅林寺の両本山では法興浄音上人と称している。法然上人から西山上人(証空)へと受け継がれた念仏を、「西谷義」として今日まで継承された浄音上人のことを周知しているものは少ない。しかし、その人柄と生き様を感得する時、なくてはならぬ功労者と言わざるを得ない。
浄音上人は建仁2年(1202)に村上源氏の流れを継ぐ唐橋大納言通資の孫、宰相中将である雅清の息男として誕生。久我通親と源通資は兄弟になるので、西山上人と浄音上人は親族になる。
法然上人が大往生をされた建暦2年(1212)の翌年、建保元年(1213)の春に浄音上人の母は不思議な夢を見た。西山の峯に月の光が煌々と照らす様に心動かされ、導かれる気持ちになった。その頃、西山上人は東山の「小坂」から、慈円僧正の譲りを受けて西山の北尾往生院にいた。12歳になられた浄音上人は、慈円僧正を経て、西山上人の弟子として5月に入門された。
その後、西山上人の教えを深く理解し、善導大師の書物を学び、西山上人が當麻寺で當麻曼荼羅を研鑽された時も、寛喜元年(1229)に信濃善光寺をはじめ東国へと布教の旅をされた時も同行された。この際、後に落語の祖と称讃される安楽庵策伝が出家し、住職を務めた岐阜市三輪に「浄音寺」を建立している。浄音寺誌によれば、嘉禄2年(1226)、西山上人が浄音上人らと信州に向かう途中、濃州の豪族であった斉藤国政が建立を依頼し、寛喜元年(1229)に創建され開山されたとある。古称は「西谷山大徳院梅鶯精舎浄音教寺」と称している。
仁治4年(1243)2月に42歳になった浄音上人は、深草流の円空立信が発願され、証慧、遊心、慧阿、感空などと西山往生院で厳修された浄土三部経の写経にも参加し、『無量寿経』下巻を写経された。「浄音房一校了南無阿弥陀仏」と記された筆跡が残されている。これは後に山崎大念寺来迎仏胎内文書として発見されている。
西山上人が入滅された宝治元年(1247)より2年後、参回忌を迎える建長元年(1249)、48歳の浄音上人は西山の地から御室仁和寺の西谷にある新光明寺の住職となった。仁和寺は建保5年(1217)に西山上人が善導大師の『般舟讃』を発見された場所。この頃から、周りの方々は浄音上人のことを西谷上人と呼称するようになり、その教えを「西谷義」、それを受け継ぐお弟子たちの流れを「西谷流」と口にされるようになった。
その教えは脈々と受け継がれ、現代の檀林寺院の開基となっている。岐阜県美濃の立政寺、愛知県部田の祐福寺、愛知県江南市にある飛保の曼陀羅寺、また、名古屋市熱田の正覚寺、和歌山県梶取の総持寺へと流れている。浄音上人は西山上人から受け継いだ教えを弟子に伝授するのみでなく、復説を大切にして後継者となり得る弟子の育成に努められた。これは、『観無量寿経』の中でお釈迦さまが阿難に王宮の物語を再び説かせる「爾時阿難広為大衆説如上事」に通じるものがある。そして、善導大師の観経疏を大切にした復説が受け継がれていかれたのであろう。
建長3年(1251)50歳の時より弘長元年(1261)の間、総本山光明寺の第六世として法灯を護持された。その間、法然上人のご命日の法要(当時は黒谷忌)の作法が定まらないことに心を痛め、善導大師の『法事讃』を引用して法要を制定された。そして、文永8年(1271)5月22日、西谷の新光明寺にて合掌して70歳で往生された。
弟子の乗信は、百カ日の頃に不思議な夢告を受ける。「私はもともと悟真の光明である。数百年を得て教えに来たが、因縁は尽きたので、西方の極楽浄土に帰る」と。乗信は夢から覚めても「悟真」とは誰のことか理解できずにいた。高僧伝を紐解くと「善導大師」のことと悟り驚いた。教えを受け継いだ観智・了音・観性・真道たちは未完成であった浄音上人のメモ書きのような手記を集め、浄音上人の名で『愚要鈔』十六巻『西山口決鈔』『西山十七箇条』などの書物を完成させた。
『大日本沿海與地全図』今でいう『日本地図』を測量して作成した伊能忠敬がいるが、実は完成する4年前に命を終えている。残された弟子方がその死を知らせずに完成を遂げ、伊能忠敬の名前で世に公開した。浄音上人もこのように弟子達から篤い信頼を受けていた。