空海『即身成仏義』の核心について(1/2ページ)
前東洋大学長 竹村牧男氏
密教の特質は、優れた行法によってこの世のうちに成仏を果たすことができるということにあるとよく言われる。いわゆる「即身成仏」が実現するというのである。空海は『即身成仏義』を著し、その前半において、密教の教えにしたがって修行すれば、この身において、この世のうちに成仏できるということを『大日経』『金剛頂経』『菩提心論』に基づく八箇の教証によって示している。
しかし、「六大無礙にして常に瑜伽なり」から始まる「即身成仏頌」を説く後半になると、空海は「即身成仏」の語に対する独自の解釈が開示していく。その内容は従来、必ずしもよく理解されてこなかったのではないかと思われる。
まず、「即身成仏頌」の第一句、「六大無礙にして常に瑜伽なり」の句の真義がほとんど理解されていない。六大とはふつう、地大・水大・火大・風大・空大・識大という物質的・心理的諸元素のことである。しかし空海はこの六大について、『大日経』『金剛頂経』のある特定の句によってその意味を取るべきだと指示する。すなわち、六大は、本不生・離言説・自性清浄・不生不滅・空および覚智のことを表すものだというのである。要は、大日如来の本体、つまり法界体性(それは自己の本体でもある)の内容を、この六大で明かしているというのである。したがってこの六大は、けっして諸元素のことなのではない、理智不二の本覚真如としての法界体性に具わる種々の徳性を表現しているものなのである。
また、この句の解説の中で、この六大=法界体性(理)は能成であり、所成は一切の仏及び一切の衆生等の四種法身、及び三種世間(智正覚世間・衆生世間・器世間)等(事)を意味することが、繰り返し強調されていく。この所成は、いわば現象世界のすべてであるといってよい。なお、能成・所成とあっても、それは対立する能・所にかかわる能成・所成なのではないとも強調されている。したがって、本性としての六大=法界体性と現象としての各身との間は、いわば一体にある、もしくは不一不二の関係にあるということになろう。
こうした論脈をふまえて、「六大無礙常瑜伽」の句の最終的な意味が以下のように明かされている。
是の如くの六大の法界体性所成の身は、無障無礙にして、互相に渉入し相応せり。常住不変にして、同じく実際に住す。故に頌に、六大無礙常瑜伽、と曰う。無礙とは渉入自在の義なり。常とは不動、不壊等の義なり。瑜伽とは翻じて相応と云う。相応渉入は即ち是れ即の義なり。
この文によれば、「六大」が常に瑜伽なのではない、「六大法界体性所成の身」が常に瑜伽なのである。この「即身成仏頌」第一句についての、最終的なこの説示を見逃すべきではない。この説明の内容を十全に表現するなら、「六大は法界体性の(徳性)のことであり、これに基づく凡夫身から仏身までのあらゆる身が、無礙に渉入自在であって、常に変わらず相応(瑜伽)している」のだということである。無礙にして渉入・相応しているのは、法界体性ではなく、あらゆる身同士であることを、「六大無礙常瑜伽」に読まなければならないのである。
そうすると、実はここにおいてすでに、人間存在の曼荼羅的構造が提示されているということになる。ここに、「相応渉入は即ち是れ即の義なり」と即の語の意味が明かされているように、「即身成仏」の「即」の意味は、実はある一身があらゆる他者の身と相即渉入していることなのだと、空海は明かしたわけである。