津村別院の明治維新(2/2ページ)
山形大地域教育文化学部教授 大喜直彦氏
明治2年(1869)2月には、大福寺(現、大阪市天王寺区上本町4丁目)に大阪医学校・仮病院を開設(適塾は明治元年閉塾)し、洪庵次男惟準が院長に就任。同年7月に仮病院は法円坂の代官屋敷跡(現在の大阪医療センター付近)に移転し「大阪府医学校・病院」となりました。これは現在の大阪大学医学部の前身なのです。翌年、除痘館が附属除痘館として併合されます。
明治6年(1873)2月、医学校は改組され大阪府病院となり、別院へ移転してきます。別院は本堂を除くほとんどの建物を病院に貸与します。この移転決定の詳細は不明ですが、この病院が適塾を母体とし、適塾が別院の元お隣さんという関係から考えれば、以前から別院関係者と洪庵との交流があり、それを基に貸与につながったと考えられます。
このように別院は医療機関としての役割を担うことになり、医療の近代化にも寄与していたのです。
さらに別院は大阪経済界の新たな動向にも巻き込まれていきます。明治11年(1878)8月、新時代を担う経済界指導者五代友厚、藤田伝三郎などにより大阪商法会議所が設立されます。これは疲弊した大阪経済の再繁栄を目的とした経済団体で、現在の大阪商工会議所の前身です。その第1回目の会議(第一次会)は、9月2日「西本願寺掛所(津村別院)ノ一堂」を議場として催されたのです。別院がなぜ初回の議場に選定されたのか不詳です。ただ別院が広い場所だからではないでしょう。大阪商人には真宗門徒が多く、その関係で選ばれたのではないでしょうか。商法会議所と真宗門徒の深い繋がりを示す事実として、3代目会頭には真宗門徒の田中市兵衛[大阪商船・双日]が就任しています。
そのほか、真宗門徒として大阪経済を発展させた経済人を一部指摘すると、広岡久右衛門[大同生命]、木原忠兵衛[双日]、伊藤忠兵衛[伊藤忠商事・丸紅]、久原房之助[藤田組・東京生命保険相互会社]など多くいます([ ]内は関係した代表的企業名を指す)。
ここから商法会議所、商人が真宗と深い関係にあることがわかるでしょう。このように別院は大阪の経済界とも強く結びついていくのです。
幕末・維新期の日本史は、寺田屋事件、蛤御門の変、尊王攘夷、討幕派、佐幕派など、多く京都を舞台にしています。
しかし、実は大坂も歴史の最前線にあり、津村別院・寺院・門徒も、政治、文化、経済の近代化のなかに巻き込まれ、そのなかで、新しい時代に対応し現在の大阪を育てて行くのでした。この意味で大阪の歴史をみることは、京都中心ではない新たな歴史像もみえてくるといえるでしょう。
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津村別院の現住所は、大阪市中央区本町4丁目1番3号。
【参考文献】
本願寺史料研究所編『増補改訂本願寺史』第三巻、浄土真宗本願寺派、2019年
前田徳水『津村別院誌』本願寺津村別院、1926年
宮本又次「田中市兵衛」同編『上方の研究』第4巻、清文堂、1976年