津村別院の明治維新(1/2ページ)
山形大地域教育文化学部教授 大喜直彦氏
大坂の本願寺は織田信長との合戦後、京都の地へ移転します。その跡には津村別院が創設され、大坂の門徒の信仰の場となってきました。別院は商都大坂とともに江戸時代を生き抜き、やがて明治維新を迎え、近代化の波に巻き込まれていきます。その始まりは、慶応4年(明治元年〈1868〉)1月3日の新政府軍と旧幕府軍との戦い、鳥羽伏見開戦からです。
同月6日、大坂城に退去していた元将軍徳川慶喜は大坂城での徹底抗戦を説きますが、深夜、老中板倉勝静ら少数を率い密かに城を脱出、軍艦開陽丸で江戸へ退却してしまいました。この総大将の逃亡で旧幕府軍は総崩れとなり敗北します。
9日、新政府へ旧幕府軍から大坂城引き渡しの時、幕臣の放火で大坂城が炎上。この混乱のなか、別院は五尊・宝物類を木津願泉寺へ避難させました。10日、征討大将軍仁和寺宮嘉彰親王が、別院を本営として進駐します。このように新しい時代の始まりに大坂の別院は政治の最前線に立たされたのです。
1月17日、大久保利通は大阪遷都を建白。この目的は遷都あるいは行幸を機に、天皇親政を実現しようとしたのでした。この論議のなか、同月22日、大阪鎮台(大阪府の前身)が設置され、その営所が津村別院に仮設されます。遷都論は公卿の中山忠能や大名の松平慶永らの猛烈な反対により廃案となりました。
次に大久保は、保守派にも受け入れられやすい親征、つまり大阪行幸を提案し、それは3月21日と決まりました。親征が決すると、慶応4年2月、新政府は本願寺に「大坂掛所(津村別院)」を行在所(仮皇居)とする旨を通達してきたのです。
23日、明如新々門と徳如新門は別院で天皇を迎えます。滞在中、天皇は天保山台場の軍艦や大阪城での繰練など軍事関係設備の叡覧や、座摩神社、住吉神社といった神社を参詣します。行在所中、別院は本尊を斜め向かいの浄照坊に遷仏をします。還幸は閏4月7日と決定し、5日に参内した際に、新々門は小屏風一双を贈られました。なお天皇の滞在40余日で、本願寺の負担額は2万両に達していました。
別院には別な動きも始まりました。天保9年(1838)3月、医学者・蘭学者として著名な緒方洪庵が、大坂瓦町に蘭学塾「適塾」を開きます。門人は3千人といわれ、佐野常民、橋本左内、福沢諭吉、長与専斎、大村益次郎、大鳥圭介などの著名人が輩出されています。「浪花名医所附医家名鑑」での適塾の位置は「津村東之町」(現、瓦町4丁目)とみえます。つまり別院の北側の町です(弘化2年現在地=現、北浜3丁目=に移転)。
洪庵は嘉永2年(1849)、大坂古手町(現、中央区道修町4丁目)に、天然痘の種痘所「大坂除痘館」を開設。以後、種痘普及に尽力をしました。その所在地からみて、同館は適塾の北にありました。つまり、別院の北に適塾、その北に除痘館という並びとなり、お隣さん同士なのでした。