近代日本を駆け抜けた“かなしみ”の菩薩・瓜生イワ(2/2ページ)
上智大大学院実践宗教学研究科博士後期課程 井川裕覚氏
東京市養育院は明治初期に設立され、渋沢栄一が院長を務めた公立の救貧施設である。特に明治20年代は、相次ぐ社会問題によって窮民が激増していた。養育院の衛生環境は悪く、病死する児童も少なくはなかった。このような状況で、養育問題の改善や精神的なケアを任せられたのが瓜生イワであった。
その働きぶりについて、当時の養育院で幹事を務めた安達憲忠が次のように伝えている。
「(瓜生イワは)只わけもなく快活に働くのであった、同女は朝から晩まで、一分間でも休止する事なく働いて居る。第一に衣服の襤褸を引きずり出して、之を細かく割いて縄をなうて、草履を作るのである。(略)仕事をしながら、なにか頻りと面白そうに話をして居らるる。(略)(仕事を手伝う子どもたちに向けて)お婆さんの云う事を味わって見ると、人間処世の大趣旨を徹底さして居ると感じた(安達憲忠『瓜生岩子の事』東京市養育院)、1913年」
安達が就任した頃、大人と談話し、笑顔を見せる児童はほとんどいなかったようであるが、イワが関わって2カ月も経過した頃には、子どもたちの様子は改善され、顔色も明るくなったという。
彼女が行ったのは、子どもたちに誠意を尽くして関わり、人としての生き方を自然と伝える、まるで実の「お婆さん」のように接する家族的な関わりであった。それは、子どもたちの人間性を分け隔てなく尊び、一人一人の自立心を育もうとする「福祉思想」に通じるものであり、以前の厳格な管理下で行われた処遇とは異なった。
皇室にも認められたことで、瓜生イワの名声は全国的に広まり、1891年11月に東京市養育院を辞職して地元福島へと帰郷する。その後、福島を舞台に育児施設や産婆講習会、私立済生病院などの他、93年2月には宗派を超えた仏教界の協力の下で福島鳳鳴会育児部(現在の福島愛育園)を設立する。イワの「福祉思想」は、仏教界との協力による近代的施設の組織化に伴っていかに具体化されたのか。
イワによる設立趣意書では、子どもへの愛情を最上のものとした上で、貧困や病によって十分に養育を受けられない子どもに対して「慈悲」の念が起こるとし、それ故に四恩における「衆生恩」と八福田の「悲田」という大乗思想が説かれたことが述べられている。これらは、人々が互いに連関しているという縁起思想を根拠に、貧しい境遇にある者の恩に報いることや、困窮者などに恵を施すことで功徳が得られるという仏教の福祉の根拠とされてきた思想である。
さらに注目すべきは、これらに加えて「自他平等」が説かれ、普遍的に他者を尊重しようとする立場から慈善事業を根拠づけていることである。このような理念は、上下関係によって成立する慈善や慈恵とは異なり、対象者と対等な立場から慈愛をもって活動してきた瓜生イワの「福祉思想」の萌芽を仏教思想によって裏付けたものであった。
重要なことは、明治中期における仏教者の慈善事業において主流とされた、活動主体の視点から仏教思想と事業を結び付けようとする姿勢とは異なり、イワの事業における理論および組織が、現場での経験知を蓄積していく中で形成されたことである。そして、常に当事者の立場に身を置いて社会問題を発見し、人々の人格を尊重し、社会生活における自立を支えようとする瓜生イワの思想が、福島鳳鳴会という仏教団体において具体化されたのである。その灯火は現在もなお福島愛育園に受け継がれている。
東日本大震災以降、子ども食堂やグリーフケア、貧困対策など仏教の社会活動が多岐にわたっている。それを内から支えているのはもちろん仏教であり、その思想であるが、社会のニーズに真正面から向き合おうとするとき、その理解や知識、世界観から大きく逸脱する問題に直面することがある。そんな折、時代に流されず、一人ひとりのかなしみに耳を傾けようとした瓜生イワが我々に問いかけるものの意味は大きい。