近代日本を駆け抜けた“かなしみ”の菩薩・瓜生イワ(1/2ページ)
上智大大学院実践宗教学研究科博士後期課程 井川裕覚氏
日本を代表する観光地のひとつ、浅草寺(東京都台東区)の境内の片隅に一人の老婆の銅像が建っていることをご存知だろうか。幕末から明治維新期の動乱の中、恵まれない子女に手を差し伸べ続けた仏教徒・瓜生イワの遺徳を顕彰するため、1901(明治34)年に建てられたものである。
瓜生イワは、1829(文政12)年、陸奥国耶麻郡熱塩村(現在の福島県喜多方市)で会津藩領の油商の家に誕生した。14歳の頃、会津藩で医師を務めた叔父の山内春瓏の下で、行儀見習いや漢学、仏教を学ぶ傍ら堕胎間引き防止活動に帯同する。会津戦争で敵味方の区別なく支援を行った後、旧藩校日新館の再興や子女の教育、授産指導に努め、明治20年代に頻発した磐梯山噴火や三陸津波などの災害支援を行った。91年には女性で初めて帝国議会への請願を行っている。その後、東京での有力者や皇室との関わりを足がかりに、地元福島で福島鳳鳴会育児部や瓜生会などの事業を指導した。96年に女性初の藍綬褒章を受章し、その翌年に69歳で生涯を閉じる。
女性の社会進出もままならない時代に、いかにしてこのような社会事業活動を展開できたのか。それは、幼少期から20代にかけて幾度も経験した死別体験の影響が考えられる。天保の大飢饉の影響が冷めやらぬ37年、9歳にして父親が亡くなり、直後に火災で実家をも失う。堕胎間引き対策に臨んでは、無残にも幼き命が奪われる現実に直面する。残された家族が生きていくためとはいえ、その惨状は想像に難くはない。同時に、子を手放さなくてはならない女性たちの悲しみに、誰よりも心を痛めたのが瓜生イワであった。それは、会津戦争から遡ること数年前、病床に伏していた夫の看病や子育てを抱えながら、自宅で貧児のほか、女性の保護を行ったことからも窺える。その翌年に夫を失い、翌々年には一心に育ててくれた母が帰らぬ人となる。瓜生イワ、35歳の頃であった。
困り果てたイワは夫と営んだ呉服屋を畳み、旧小田付村に身を寄せる。何もかもを失ったイワは母方の実家の山形屋(熱塩温泉)の近く、瓜生家の菩提寺であった曹洞宗・示現寺の和尚のもとを訪ねる。尼になって遁世したいというイワに、和尚は意外な言葉を口にする。
それは、生者必滅会者定離、悲しみを知ったからこそ家族がいる喜びを知ることができ、他人の喜びを自分の喜びとする、自利利他の道こそが瓜生イワの生きる道であるという諭しであった。
この出会いをきっかけに、イワは社会問題に向き合う一大決心をする。その眼差しは一層、生活苦に喘ぐ子どもや女性たちに向けられていく。
瓜生イワの生きた時代は、仏教による社会事業史の時期区分によると、〈慈善〉から〈慈善事業〉にかけての転換期に位置している(吉田久一『日本近代仏教史研究』川島書店、1992年)。当時の仏教徒は、明治維新からの復権の活路を社会活動に見出そうとした。それは明治国家への有用性を示すことやキリスト教への対抗意識を視野に入れた、“上”から“下”へと施される慈恵的な要素の強い活動であった。
瓜生イワも皇室の慈恵に触れ、公的権力との連携を模索するなど様々な社会活動を展開したが、他の仏教徒とはやや異なる様相を示していた。ここでは、1891年に保母として務めた東京市養育院での児童との関わりを紹介する。