釈尊と仏弟子たちの日常生活―釈尊教団形成史と釈尊の生涯⑤(2/2ページ)
東洋大名誉教授 森章司氏
そして乞食に出発されるまでは、教えを受けにやってきた弟子を指導されたり、坐禅をして過ごされた。時には早めに僧院を出て、さまざまな宗教者が集まる園林を訪れて議論されることもあった。弟子たちは偈頌(詩)にまとめられた教えをみんなで誦しあうということはあったかもしれないが、釈尊の時代には書冊にされた経典というものはなかったから、読経という習慣はなかった。なお侍者といえば阿難を思い浮かべられるかもしれないが、ここにいう侍者は和尚の身の回りの世話をする者のことであり、必ずしも定まった比丘ではなかった。阿難はサンガから任命された釈尊教団の秘書室長のような役職者である。
釈尊が1人の侍者を連れて村や町に乞食に出発されるのは午前10時半ころで、村や町の入り口でサンダルを脱がれて裸足になり、三衣をきっちりと着けて、戸ごとに食を乞うて歩かれた。得られた食物を僧院に持ち帰って比丘たちと一緒に食堂で食べるということはなく、町や村外れの園林の樹下などにおいて食された。ただし在家信者が僧院に食事を差し入れてくれた時や、在家信者の家に招待された時は、サンガの全員とともに食事をとられた。このような時には食後に説法されるのが決まりであった。
食事の内容には禁忌というものはなく、在家信者が出してくれるものなら何でも食べた。釈尊時代には牛の肉も豚の肉も食べていた。これがいわば正餐であって、この正餐は正午まで(太陽が南中するまで)に終わらなければならなかった。そして僧院に戻って托鉢の鉢などを洗って乾かし片づけるまでが食事時分であった。これらは侍者の仕事であったが、釈尊はこれらをじっと見守られていたであろう。これが食事時分の釈尊の生活である。午後時分は釈尊や仏弟子たちにとっての自由時間であった。釈尊の場合は僧院の近くの静かな園林に入って坐禅されるのを常とされた。これは昼日住とも独座とも呼ばれるが、この時間帯はむしろカウンセリングの時間として使われたようである。僧院の外であるから在家信者も他の宗教者も自由に訪問できたし、もちろん相手が比丘尼であることもあった。
ただし旅に出られる場合はこの時間が移動のために充てられた。せいぜい4時間くらいのものであるから、釈尊が徒歩で進まれる距離は平均すると1日に10キロくらいのものであった。1カ所に2、3日間留まれることもあったからである。舎衛城から王舎城までは600キロほどであるから、2カ月もかかったことになる。昼日住を起たれた釈尊は、比丘たちが談話している講堂に赴かれて説法されることが多かった。病気の比丘を見舞われたり、他の宗教の宗教者を訪れられたりすることもあった。沐浴したり、井戸端で身体を洗うようなときにはこの夕方時分の時間帯が使われた。僧院にはサウナのような浴室を持つ立派なものもあった。時には砂糖水やジュースなどの飲み物を飲んで、くつろがれることもあったかもしれない。砂糖水などは食物ではなくむしろ薬のようなものとして位置づけられていたからである。
日没後の夜分は灯火の乏しい時代であるから、おそらく静かに坐禅をして過ごされることが多かったであろう。中夜にはベッドに入り休まれもしたが、その時には右脇を下にして両足をそろえて横になられた。これは師子臥と呼ばれている。僧院には枕やシーツのようなものは備えられていたが、野宿をされるときには僧伽梨にくるまって休まれた。僧伽梨というのは比丘には必携の3種の衣のうちの一つである外套のようなものである。ただし夜の初分には訪ねてきた比丘に応対されることもあったし、中夜には神々と対話されたともされている。また明け方前の後夜には比丘を訪問されたこともあった。
なお衣食住の具体的なこととなれば「一昔前のインド人の生活を想像してください、それが比丘たちの衣食住です」といってよいであろう。釈尊や仏弟子たちの生活は、苦行を廃した中道であったからあまり宗教臭いところはなく、少欲知足を旨にしていたとはいえ、むしろ一般人の生活方法に準じていた。
(「釈尊教団形成史と釈尊の生涯」の連載は今回で終了します)