釈尊と仏弟子たちの活動地域―釈尊教団形成史と釈尊の生涯②(2/2ページ)
中央学術研究所研究員 金子芳夫氏
ところで「中国」は狭いとはいえ、30万平方キロメートルはほぼ日本の国土の広さ37・8万平方キロメートルに匹敵する。当然ながら釈尊教団は、ごく狭い拠点からガンジス河の上中流域をカバーする広さに発展した。私たちは前回でも触れたように、釈尊教団の形成史と発展史を8期に分けて考えている。前部の6期について地域を中心に素描すると次のようになる。
第1期の「釈尊教団形成前史」は、仏成道から三帰依具足戒法が制定され、サンガの祖型ができるまでであって、この期の舞台はマガダ国のウルヴェーラー(ガヤーに同じ)に始まり、初転法輪のカーシ国の首都バーラーナシーを経て再び舞台はガヤーに戻る。第2期「釈尊教団の成立」は、十衆白四羯磨具足戒法が制定されてサンガが成立し、マガダ国王頻婆娑羅(ビンビサーラ)の後援を得てインド国内において釈尊の教えが公認教となり、その他のサンガ運営の諸制度が整備されるまでであって、この期の舞台はマガダ国の首都ラージャガハ(王舎城)であった。
第3期「バラモン教世界への進出」では、舞台はマガダ国と並ぶ2大国の一つのコーサラ国へと移った。その契機は首都サーヴァッティ(舎衛城)に祇園精舎が建設されたことであった。当時のインド文化の根底にはバラモン教があり、その伝統を色濃くもつ社会に、給孤独長者による祇園精舎の建設はまさにその牙城に楔を打ち込むようなものであった。その後紆余曲折を経て国王波斯匿(パセーナディ)も釈尊に帰依するようになり、仏教とは文化的基盤を異にする地に教えが定着したのである。釈尊の生まれ故郷のサキヤ国に釈尊の教えがもたらされたのもこの時期である。
第4期「釈尊教団の発展」は、釈尊の教えが「中国」の各地すなわちアンガ国、ヴァッジ国(首都ヴェーサーリー)、ヴァンサ国(首都コーサンビー)などに広まった時期である。しかし西方に位置するパンチャーラ国やスーラセーナ国での布教はあまり成功したとは言えなかった。当時の文化的先進地であり、名医とうたわれる耆婆(ジーヴァカ)が医学の勉強のために留学したガンダーラ地方の中心都市であったタッカシラー(現在のタキシラ)に釈尊の教えが伝わらなかったのも、こうした背景があったかもしれない。第5期「弟子たちによる布教」は、釈尊の教えが「辺国」に伝えられた時代である。その代表的な地域がデカン高原の最北部にあるアヴァンティ国(首都ウッジェーニー)であり、出家授具足戒の人数が辺国においては5人でよいと定められたのはこの地がきっかけとなった。
しかし、このように教線が延びる一方で、釈尊晩年の第6期「サンガ内の紛争と分裂」においては、コーサンビーでの破僧事件、ラージャガハでの提婆達多(デーヴァダッタ)の反逆事件が起こり、釈尊教団が好ましからぬ方向に傾くという一面もあった。こうした事態に釈尊は心を痛められたであろう。
以上は釈尊時代のインドの状況であるが、大乗仏教に対する釈迦仏教を中心にしていえば、今では釈尊の教えは広く東南アジアのスリランカ、タイ、カンボジアなどに定着している。しかしその契機は皮肉にも釈尊の死にあったということができるのであるが、これについては第4稿において述べられる。