釈尊と仏弟子たちの活動地域―釈尊教団形成史と釈尊の生涯②(1/2ページ)
中央学術研究所研究員 金子芳夫氏
釈尊と仏弟子たちの活動地域を最も端的に物語るのが「中国」と「辺国」という言葉である。この言葉はもともとは律蔵において、出家希望者をサンガに入団させる手続き(授具足戒)として、そのサンガは10人以上の比丘によるべしと定められた地域が「中国」であり、「辺国」は10人以上の比丘を集めるのが難しいとして、その人数が5人でもよいと定められた地域である。
そして「中国」は東西南北の限りはどこそこと具体的な地名が挙げられているが、おおよそ掲載地図に国名をあげた17カ国に相当すると考えてよい。ヒマラヤ山脈とデカン高原に挟まれたヒンドスタン平原のうちのガンジス河上中流域地方のおよそ30万平方キロメートルで、インド亜大陸の330万平方キロメートルのうちの約11分の1に相当する。そしてこの外側が「辺国」である。といっても、この「辺国」には現在のパキスタンやインドの西ベンガル州、およびデカン高原はほとんど含まれていないから、「中国」をひと回り広くした程度である。
筆者担当の『原始仏教聖典の仏在処・説処一覧』(『中央学術研究所 モノグラフ篇』第2、4、5、8、15号に掲載)という資料集で明らかなように、「中国」は釈尊が実際に足を踏み入れられて説法された地域と重なり、一方の「辺国」は仏弟子の足跡が見いだせるけれども釈尊は登場されない地域である。そして、その外側は「異域」とでも呼ぶべき地域で、釈尊の教えが及んでいなかった。
これら釈尊や仏弟子たちの活動した地域があまりにも狭いことに驚かれるかもしれないが、これには釈尊教団の組織運営システムという理由がある。釈尊教団は釈尊が制定した律を遵守することでまとまった組織であるが、律の規定はサンガのなかで何か不祥事が起きた時に、その都度、対処するという形で制定された。これを「随犯随制」という。そしてこれを犯せば最も重い場合は教団追放もあり得たから、仏弟子たちは新しい規定がいつ制定されたか、いつ改訂されたかを常に知っていなければならなかった。口コミが唯一の情報伝達手段であり、徒歩が主要な交通手段であった(馬車や牛車などの乗り物に乗ることは病人を除いて禁止されていた。舟は利用できたがヒンドスタン平原を流れる河は流れが緩やかで交通手段としては徒歩より速さで劣る)。
当時にあっては、そのために年2回、雨安居の前(春の大会)と後(夏の大会)に釈尊のもとに集まり、法や律に関する情報を共有化する習慣が成立した。そして、この情報を持ち帰った仏弟子たちは、それぞれが所属するサンガにおいて月に2度ずつ行われる布薩の場で、これを徹底し確認し合うというシステムが成立した。そのため仏弟子たちは釈尊から遠く離れた所には住めず、また釈尊ご自身も中央から離れた遠隔地に赴くこともできなかった。このため「中国」と「辺国」はおのずから狭くならざるを得なかったわけである。