汎太平洋仏教青年大会 ― その光と影 ―(1/2ページ)
龍谷大教授 中西直樹氏
世界各地で、宗教・宗派間対立に端を発する紛争や戦争が後を絶たない。これに対して、日本仏教界でも、世界平和や宗教間対話に関する取り組みがないわけではない。戦後、昭和25(1950)年に世界仏教者の友好親善と世界平和への貢献を目的として、「世界仏教徒連盟」(WFB=World Fellowship of Buddhists)が組織された。日本仏教もこの活動に関わり、過去4回にわたって世界仏教徒大会が日本で開催されている。
また、昭和45(1970)年には、日本諸宗教で組織する「日本宗教連盟」の呼びかけで、第1回「世界宗教者平和会議」(WCRP=World Religions for Peace)が京都で開催された。この会議は、その後も数年おきに世界各地で開催され、世界平和実現のための宗教間協力の取り組みを続けている。
しかし、日本仏教界全体として見ると、国際交流・世界平和に向けた活動は低調なように見受けられる。その一方で、日本が戦争に直面していた時期には、諸宗派を挙げた仏教の国際交流への積極的事業展開がなされ、大がかりな国際仏教大会が開かれていた。
昭和8(1933)年3月、国際連盟から脱退した日本は、やがて出口の見えない戦争へと突き進んでいった。国際的に孤立し戦火が広がるなかで、日本仏教の関係者たちは、欧米の仏教者・研究者との連絡の緊密化を図り、アジア諸国の仏教勢力との連携を模索した。なかでも、昭和9(1934)年7月18日から6日間にわたって東京・京都を会場に開催された「第2回汎太平洋仏教青年大会」は、最大のイベントであった。この大会は、どういう経緯から企画され、後の世に何を残したであろうか――。
第1回汎太平洋仏教青年会大会は、昭和5(1930)年7月21日から26日まで、ホノルルの布哇(ハワイ)仏教会館で開催された。ハワイでは、1924年に移民の権利を厳しく制限した移民法(いわゆる「排日移民法」)が施行され、日系人への排斥運動が激しさを増していた。当時、ハワイの人口は約33万人だったが、人種別で日本人が最多の約13万人を数え、約4割を占めていた。宗教信者別でも仏教信者が最も多く、真宗信仰の篤い広島・山口・熊本・福岡の出身者に移民が多いことから、本願寺派の信者が大多数を占めていた。こうしたなかで、日本人と仏教への偏見を改めるため、仏教の国際性をアピールしていくことが切実な課題として浮上していた。
当時の本願寺派ハワイ開教総長・今村恵猛は、日系移民のコミュニティーの立場を代弁するだけにとどまらず、外国人にも広く仏教理解を広めることの必要性を痛感し、さまざまな施策を展開していた。その一環として、仏教の国際性をアピールするために企画されたのが、汎太平洋仏教青年大会であった。
大会の出席者は、代表177人、傍聴席50余人の多数にのぼったが、中国、シャム(タイ王国の旧名)などが代表者の準備が整わず不参加を決め、朝鮮からの参加者は1人、インド代表も代理1人にとどまった。米国代表として、米国駐在開教使や米国仏教青年会の幹部ら10人が参加したが、彼らはいずれも在留日本人と日系人であった。一方、主催のハワイ側からは、ハワイ仏教連合青年会の役員、各島の仏教青年会役員、仏教各宗派のハワイ布教監督と仏教青年会代表らが参加した。しかし、日本人・日系人以外の参加者は、本願寺派英語伝道部の外国人5人だけであった。準備不足や経費の問題もあったのかもしれないが、結局のところ会議は、日本側出席者とハワイ・米国の日系人仏教者が親睦を図り、相互の権益のため協力することが確認されたに過ぎなかった。