象徴天皇制と「君徳」(2/2ページ)
國學院大研究開発推進機構助教 齋藤公太氏
ここで親房のいう「正理」とは、道徳的な善や不善に対する応報が、歴史のなかで実現するという理法を指している。他方で親房は中世神道の教説を背景として、天照大神が皇孫へと授けた三種神器、鏡・玉・剣が、それぞれ「正直」「慈悲」「智慧(決断)」という三つの君徳を象徴していると説く。これら神器の象徴は、天皇をはじめとする統治者が従うべき政治の規範であるというのである。
このような三種神器論を媒介として、親房は「正理」の観念を皇位継承に適用する。親房によれば「天下の万民は皆神物」であり、「人をやすくする」ことこそが神の意志である。この意志にかなった政治を行った天皇は、その前途が開け子孫へと皇位が継承されるが、それに反した悪政を行った場合は子孫への皇位継承が阻害されるという。たとえば『日本書紀』などで「悪王」として描かれた武烈天皇の血筋が途絶え、やがて君徳を備えた継体天皇が即位したことを、親房はこうした「正理」の発現例と見る。このような「正理」の発現の積み重ねにより、初代の神武天皇から現在の皇位継承者へと至った一筋の血統。それを親房は「正統」と呼び、それ以外の傍系と区別する。
「正統」が現在の皇位継承者と神武天皇をつなぐ一系の血筋である以上、天皇の倫理性への応報によって皇位継承の系統が変動すれば、当然「正統」の系譜も変化しうる。その意味で「正統」と傍系の区別は相対的であり、常に変化の途上にあるといえる。それゆえにこそ親房は「正統」となるべく君徳を体現することの必要性を天皇に対して説くことができたのだった。同時に親房は皇統の変動を神によってあらかじめ定められた「正統」への回帰としても語っており、かかる矛盾を内包しつつ『正統記』という書物は存立していた。
そもそも親房にとって北朝とは「偽主」の系譜であり、唯一の皇統は南朝のみであった。それゆえに親房は天皇・朝廷自体の統治の正統性を説明しようとしたのだが、実際には親房の没後、南朝は事実上の敗北を迎える。だがその後も『正統記』が長く読み継がれていったことは、そこで語られた日本の「伝統」が時代状況に応じて求められたことを示していよう。
例えば新井白石のような近世の儒者は『正統記』の言説を応用し、天皇家全体の徳治の喪失がやがて徳川幕府へと至る武家政権の成立を招来したととらえた。だが、近世後期に藤田幽谷とその門人によって形成された後期水戸学においては、同様に『正統記』を受容しながらも、天皇による君徳の保有は自明の前提とされ、「正統」の変動という言説は後景に退いていく。それは天皇による無窮の統治という「国体」をよりどころとして当時の政治体制を再建しようとした企図ゆえであろう。
後期水戸学による『正統記』の再評価とその解釈は明治維新以降も継承されていった。『正統記』が皇室の教育に用いられたほか、学校教育の教材としても普及し、「国民道徳」の古典として広く人々に読まれるに至ったのである。しかし明治22年(1889)に皇室典範が制定され、皇位継承の順位が法的に規定された以上、もはや『正統記』の「正統」論が存立し得る余地はなかった。
とはいえ『正統記』が示したような天皇の君徳をめぐる言説は、「正統」論から切り離されつつ近代国家の体制下で再解釈され受け継がれていった。たとえば明治憲法や教育勅語の作成に携わった井上毅は、三種神器の鏡が「君徳」に基づく統治という「不文憲法」を表わしていると語り(「言霊」)、東宮御学問所御用掛として裕仁親王(昭和天皇)の倫理教育を担当した杉浦重剛は、三種神器が「知仁勇」という君徳の象徴であり、「三種の神器に則り皇道を体し給ふべきこと」を説いていた(『倫理御進講草案抄』)。
以上のような『正統記』の思想とその受容史が示しているのは、天皇が人々のために徳を体現することで国を治めてきたという日本の「伝統」の語り方が中世に生まれ、以後その語り方自体が一つの「伝統」となり、時代状況ごとの再解釈と変容を経ながらも長く受け継がれてきたということである。現代の「平成流」をめぐる語りに鑑みるならば、我々はなおもその「伝統」の圏内にいると言えるのかもしれない。ここでその当否を問う意図はないが、少なくとも今後の「天皇制」のあり方について議論するためには、このような語り方の「伝統」自体を俎上に載せる必要があるのではないだろうか。