象徴天皇制と「君徳」(1/2ページ)
國學院大研究開発推進機構助教 齋藤公太氏
新たな天皇の即位に伴い行われた大嘗祭をはじめとする皇位継承儀礼は、周知の通り国内で様々な議論を引き起こした。そうした議論の一つの焦点は、公金である宮廷費を用いて大嘗祭のような「宗教」的儀礼を実施したことと、日本国憲法における政教分離原則との整合性いかんにあろう。
他方、現在の上皇が確立したとされる「平成流」、すなわち被災地などに赴き、国民に対して同じ目線で寄り添うという天皇のあり方は、政治的な立場を超え、広範な層から支持を得ているという印象を受ける。前者の皇位継承儀礼が「戦前」の残影と見なされがちであるのと対照的に、後者の「平成流」は「戦後」の象徴天皇制における一つの達成と見なされているようである。だがこうした平成期の皇室のあり方は、果たして「戦前」からの断絶において誕生したものなのだろうか。
ところで今上天皇は皇太子時代の昭和57年に行われた記者会見において、『誡太子書』で説かれた天皇のあり方に感銘を受けていると述べていた。同書は元徳2年(1330)に花園天皇が、皇太子たる量仁親王のために著わした書物である。そのなかで花園天皇は、皇位を維持するためには学問により君徳を身に付ける必要があると説いている。今上天皇、そして上皇は、「象徴」としての自身のあり方をこうした徳治の「伝統」と結び付けて理解してきたとされる(瀬畑源「明仁天皇論――近代君主制と『伝統』の融合」『平成の天皇制とは何か』)。
歴史的にいえば、花園天皇が生きた時代の朝廷は鎌倉幕府の支配下に置かれ、皇位継承にも幕府が介入した結果、持明院統と大覚寺統の二つの血統が交互に皇位を継承する「両統迭立」に至っていた。花園天皇が天皇の存在意義としてその倫理性を強調した背景には、こうした皇統にとっての危機的状況があったのである(小倉慈司・山口輝臣『天皇と宗教』)。
時代はやがて元弘の変による幕府の敗北と建武の新政、そしてその崩壊を経て、南北朝期に至る。そこで持明院統と大覚寺統の系譜はそれぞれ北朝と南朝へ受け継がれていった。しかし花園天皇が示したような倫理的な天皇像は、南北朝の差異を超えて共有されていた。そのことを示しているのが、南朝の公卿・北畠親房が延元4年(暦応2年、1339)に著わした『神皇正統記』である(興国4・康永2年〈1343〉修訂、以下『正統記』)。同書は神代から南朝の後村上天皇に至る歴史を扱った史論であるが、単なる歴史叙述に留まらない。二つの皇統が並び立つという混沌とした状況のなかで、親房は日本の「伝統」の根源を探究し、後村上天皇をはじめとする広範な層の人々にそれを示そうとしたと考えられる。
『正統記』は「大日本者神国也。天祖はじめて基をひらき、日神ながく統を伝給ふ。我国のみ此事あり。異朝には其たぐひなし。此故に神国と云也」という有名な一節から始まる。日本は天照大神の子孫たる天皇が永久に統治し続ける国であり、それゆえに「神国」である――そのように述べる一方で、親房は「神代より正理にてうけ伝へるいはれを述ことを志き。常に聞ゆることをばのせず。しかれば神皇の正統記とや名け侍べき」と、本書の執筆意図と題名の由来を説明している。すなわち神々の時代から天皇の位が「正理」に基づき継承されてきたということ。それが親房の考える「神国」たる日本の「伝統」であった。