漢語大蔵経をめぐる研究状況および課題と可能性(1/2ページ)
鶴見大仏教文化研究所専任研究員(准教授) 宮崎展昌氏
2019年11月23日、愛知県南知多町の岩屋寺で催された一切経供養会に参列する機会を得た。同寺には、思渓蔵と呼ばれる中国・南宋代、12世紀前半に湖州にて開板された版本大蔵経を中心とした貴重な一切経5157巻が伝わる。この度、中国国家図書館所蔵の思渓蔵をその岩屋寺所蔵本によって補うことで、中国で刊行された思渓蔵復刻本が同寺に奉納されるに際し、平安期の古式に則ったかたちでの一切経供養会が催されたのである。筆者はその思渓蔵復刻事業に尽力されてきた国際仏教学大学院大学の落合俊典先生に誘われその法要に参列したが、前日までの本降りの雨がうそのように晴れ上がり、汗ばむほどの心地よい小春日和の天候のもと法会は無事円成した。
この供養会の契機となった思渓蔵復刻事業は、中国国家図書館所蔵および岩屋寺所蔵の思渓蔵の版本をデジタル撮影し、それをもとに原寸大に印刷して折帖のかたちで復刻するというものである。ちなみに、中国国家図書館所蔵の思渓蔵版本は、もとは日本の京都・法金剛院蔵本で、清末に楊守敬に買い取られて中国に渡ったものであることが落合先生らの調査で明らかになっている。18年に刊行された思渓蔵復刻版は中国の出版社から頒布されているようであるが、豪華な印刷・装丁であるためか、かなり値が張ることもあって、現在日本の大学図書館では事業に協力した国際仏教学大学院大学図書館にのみ所蔵されているようである。
この思渓蔵復刻事業に象徴されるように、漢語大蔵経研究を取り巻く環境は大きな変革期を迎えているというのが数年来筆者が感じているところである。この度縁あって、概説書『大蔵経の歴史―成り立ちと伝承』(方丈堂出版発行、オクターブ発売)を19年12月に上梓したこともあって、漢語大蔵経研究を取り巻く状況を紹介しつつ、課題や見通し、可能性などについて本稿で論じてみたい。
大正期から昭和初期にかけて、本邦で刊行された「大正新脩大蔵経」(1924~34年、以下「大正蔵」)は、現在、漢語仏典を研究する上で広く標準とされており、おそらくその状況はしばらく継続するであろう。何故ならば、その大正蔵に基づくかたちでのテキストデータベースが日本と台湾の双方で整備・公開され、現在仏教学研究において広く利用されているからである。膨大な分量の文献を研究対象とする仏教学研究において、代表的な一大コーパスである漢語大蔵経のテキストデータベースを活用できることは非常に大きな利点であり、それらが基づいた大正蔵の価値はしばらく揺るがないだろう。
しかし、刊行開始から100年を迎えようとする大正蔵にも少なからず問題点があることは、既に先行諸研究が指摘する通りである。とりわけ20世紀最後の四半世紀以降は、中国から大蔵経関連資料の影印版が数多く出版され、またデジタル技術の発達と普及により、本邦に伝存する大蔵経諸本資料がデジタルのかたちなどで公表されたことで、大正蔵を批判的に扱える環境が整ってきたと言える。以下では、中国における影印版の刊行と本邦でのデジタルによる大蔵経資料の公開について紹介しつつ、課題と展望、可能性について述べていく。
まず、70年代以降に中国および台湾より刊行された大蔵経関連の刊本は次のとおりである。
①明版嘉興(かこう)大蔵経(台湾:新文豊出版、1970)
②中華大蔵経(漢文部分)(北京:中華書局、1984~97):金版大蔵経の影印版を基本とするが、欠損している巻は高麗蔵再雕本をもって替える。
③乾隆大蔵経(台湾:新文豊出版、1991)
④洪武南蔵(四川省仏教協会、1999~2002)
⑤房山石経(中国仏教協会、2000):隋・唐から明代に至るまで制作された石刻経の影印版。特に、遼・金代の刻経は失われた契丹蔵に基づくとされる。
⑥永楽北蔵(北京:綫装書局、2000)
⑦磧砂大蔵経(北京:綫装書局、2005):1933~36年にも同大蔵経の影印本(影印宋磧砂蔵経)が刊行されるが、それよりも多くの典籍を収録する。
⑧開宝遺珍(北京:文物出版社、2010):世界に残存する零巻を高精細の印刷で復元したもの。
⑨高麗大蔵経初刻本輯刊(西南師範大学出版社・人民出版社、2012):大半が京都・南禅寺蔵本に基づく高麗蔵初雕本の影印本。当初は高麗大蔵経研究所のウェブサイトで公開されていたものが(無断で)複製・印刷されたもの。
⑩思渓蔵復刻版(2018)