第8回中日仏学会議に参加して(1/2ページ)
創価大教授・東洋哲学研究所副所長 菅野博史氏
「第8回中日仏学会議」が10月26、27日に、中国・浙江省紹興市新昌県の大仏寺で開催された。中国の教育部は、人文科学、社会科学を100の学問分野に分けて、それぞれの分野に対して、一つの研究基地を定めている。北京にある中国人民大学の「仏教と宗教学理論研究所」(2000年成立、現在は張風雷所長)が仏教学の分野で研究基地に選ばれている。研究所は日中の仏教学術交流を重視し、04年に第1回の「中日仏学会議」を開催した。
今回の総合テーマは「『涅槃経』と東アジア仏教」であった。今回の会議では、日本と中国からそれぞれ5人の学者が研究発表をした。まず日本側の発表は、菅野「『大乗四論玄義記』における『涅槃経』の引用について」、蓑輪顕量(東京大教授)「日本における『涅槃経』の受容―平安時代の日本三論宗を中心に」、師茂樹(花園大教授)「東アジア唯識における『涅槃経』の扱い―基と徳一を中心に」、鈴木健太(北海道武蔵女子短期大准教授)「インド仏教における『涅槃経』―近年の研究動向」、村上明也(龍谷大講師)「灌頂撰・湛然再治『大般涅槃経疏』に見られる『摩訶止観』」であった。
中国側の発表は、楊維中(南京大教授)「流動的仏典―『大涅槃経』の漢訳及びその改治を例として」、張文良(中国人民大教授)「法宝の仏性思想―法宝の『涅槃経疏』を中心として」、趙文(南開大講師)「『涅槃経』の仏性論と漢伝仏教における般若中観思想」、史経鵬(中央民族大講師)「南北朝敦煌逸書『涅槃経』注疏に対する基礎的研究」、孫茂霞(中国人民大博士生)「中国南北朝の仏性正因説―『大般涅槃経集解』を中心に―」である。
今回の会議は、大仏寺(かつての石城寺)の後援を受けて開催された。実は、大仏寺での会議は、4年前の第6回に引き続いて2回目である。大仏寺のあるこの地は、4世紀の東晋時代に寺院が建立され、岩壁に刻まれた約16メートルの弥勒像が有名である。また、天台智者大師(智顗)が晋王楊広(後の隋煬帝)に『維摩経』の注釈書を献上する旅の途中、天台山の山麓である、この地で入寂したことでも有名である。
中国仏教史における大乗の『涅槃経』の受容は、鳩摩羅什の入寂(409年、または413年)の後、まもない時期であった。法顕、曇無讖によって、それぞれ6巻『泥洹経』、40巻『涅槃経』(北本)が漢訳された。『涅槃経』の中心思想は、いうまでもなく仏性の普遍性と法身常住であり、東アジアの仏教界に大きな影響を与えたことは誰しも認めるであろう。本稿では、『涅槃経』が中国に伝わった頃の二つのエピソードを紹介したい。
第一に道生の闡提成仏説である。道生が「涅槃聖」と呼ばれたことは、灌頂の伝えるところである(『大般涅槃経玄義』巻上)が、『出三蔵記集』の道生法師伝は、道生と『涅槃経』との関係について、「さらに、六巻の『泥洹経』が、先に京都(建康)にもたらされた。道生は仏性を分析して、奥深い真理に深く入り、一闡提もみな成仏することができると説いた。そのとき、『大涅槃経』は、まだこの地にもたらされていなかった。[しかるに]道生一人だけの智慧の輝きが人々に先んじて生じ、独自の見解は人々の考えにそむく結果となった。そこで、伝統的学問を固守する僧たちは、[道生の説を]経典に背く邪説と考え、いっそう激しく怒り、かくて、[道生の罪を]大衆の前で顕わにして追放した」と記述している。