妙心寺派の取り組みについて ― 過疎地寺院問題≪7≫(1/2ページ)
臨済宗妙心寺派宗門活性化推進局顧問 久司宗浩氏
臨済宗妙心寺派が過疎地域の寺院の問題に積極的に取り組み始めたのは、平成24(2012)年である。当時の松井内局が宗勢の「量から質へ」の転換に舵をきったことによる。平成26年には妙心寺派全体の「被兼務寺院調査」を行い、被兼務寺院の問題を抽出する作業に取り掛かった。この調査の特筆すべき点は、兼務住職の意見だけではなく、被兼務寺院の責任役員の意見を聴取したことであろう。この調査で表出したものは被兼務寺院が妙心寺派寺院の3割に近いこと、かつその多くが「過疎地域」に存することであった。
現在、消滅自治体の言葉や限界集落、消滅集落の言葉が盛んに喧伝されるが、山間地の限界集落がそうたやすくは消滅しないだろう。そこにはごく少数となっても祖先から受け継いだ土地を守る意識が高い人々が生活しているからだ。集落の墓地はとりもなおさず彼らの直系の先祖の墓地であり、寺院には先祖の位牌が祠堂されてもいる。このような中で住民は最後まで寺院と集落の存続を望んでいるのである。
しかし、一方では合併や任意解散を望む住民の声が聞かれたのも事実である。先の調査では、そのような寺院が50カ寺を超えるものとなっていた。寺院護持の意識は高くとも、実質的な経済状況の中でそれが不可能となりつつあることを住民自身が直視せざるを得ない状況に追い込まれてしまっていたのである。
この現状をいかに捉え、地域住民の安心感を担保するかが包括団体としての妙心寺派に求められていることを実感させられたのである。この安心感とは、高尚な禅的安心を指すのではなく、人々の日常の生活感情に根差した祖先崇拝とそれへの供養である。このことを我々宗門人はしっかりと意識し、それらの人々に寄り添った施策を実施し、成果をあげなければならないのである。
振り返って見れば、昭和39年の木材の輸入自由化を端緒として、昭和40年代を中心とする高度経済成長期に地方の過疎化が急激に進んだ。それは、都市の労働者確保が最優先される中で、山村が置き去りにされてしまったのであり、経済成長と反比例して山村の疲弊が進行したのである。この結果、昭和50年代には過疎化は回復不可能なところまで進行してしまっていた。妙心寺派においても、過疎地域の無住寺院化(被兼務寺院化)が急激に進んだのが、この年代であった。