總持寺中興石川禅師の遺徳を偲ぶ② ―100回御遠忌に寄せて―(1/2ページ)
鶴見大仏教文化研究所客員研究員 尾崎正善氏
3期にわたる伽藍の大整備
御移転決定後からの伽藍整備、遷祖移転式、禅師の晋山式、二祖峨山禅師大遠忌、さらに別院(祖院)復興に関して論じます。
御移転に関わる反対運動も1907(明治40)年1月、無事終息致し、それと同時に御移転の準備に入られたのでした。同年3月9日、本山移転と別院建設について石川県庁から正式の許可が下り、10月17日、鶴見ケ丘で地鎮式が執り行われ、ここに御移転工事が着工。そして、翌年7月26日には名古屋で仏殿工事場祈祷会が行われ、仏殿建設の準備にも着手しました。
伽藍整備の状況を見ると、第1期は放光堂・伝燈院・跳龍室で、10(同43)年7月20日、放光堂立柱式が行われ、山形鶴岡の総穏寺本堂が移築されました。そして、翌11(同44)年11月5日、放光堂落成及び遷祖移転式を迎えたのです。ここに正式に能登の地から鶴見の地への御移転が完了しました。しかし、これで伽藍整備が終わったわけではありません。第2期は仏殿・鐘鼓楼・衆寮・紫雲臺・祥雲閣・大鐘楼・総受付・待鳳館等、多くの伽藍が整備されました。15(大正4)年6月6日に仏殿落慶、10月31日には、大梵鐘撞初式が行われました。
禅師が作業に当たられていた職人の方々に対する工事中の逸話が残されています。禅師は各地の布教教化からお帰りになると必ず仏殿をはじめ、紫雲臺・祥雲閣・待鳳館・香積台等の各工事場を工事課長に案内させ、終業時刻になっても必ず回られました。禅師の心遣いに、どの作業場の職人も競争のように働いていました。ある夜、作業場の電灯が煌々と輝き、鑿・鉋の音も響いていたという。禅師は「御苦労、御苦労」の御言葉を残して帰られたが、翌朝作事課長を呼んで夜業の理由を問うと、「晋山式までには」と思って作業を行っている旨の答えがあった。すると、禅師は「晋山式は1日のこと、本山の建物は永久のもの」とお話しになり、「今晩から夜業は取り止めるように」との御言葉があった。職人を思いやる温かい御心が伝わるお話です。
そうした職人達の努力により、伽藍も整備され、石川禅師は15(同4)年11月5日、大本山總持寺の住職となる式典「晋山式」を挙行しました。本来ならば、禅師に就任して直ぐに行うべきものですが、御移転と伽藍整備を待っての「晋山式」でした。
第3期は常照殿・大庫裡・三松関の整備です。そして20(同9)年4月1日から15日間にわたり二祖峨山禅師五百五十回大遠忌が挙行されました。峨山禅師の遠忌は正式には15年でしたが、受け入れ体制が整わないとの理由で5年遅らせたのです。
この時の遠忌はこれまでにない法要でした。それは交通至便の横浜で初めて行われた大法要であり、全国各地から多くの檀信徒が参拝に訪れました。宿泊者は1万1300余人です。それまでの僧侶中心の法要から、多くの檀信徒の参列する法要へと大きく変化したのです。これも石川禅師の御業績といえます。
石川禅師は御遠忌を無事円成したその年の11月4日、発病、11月16日、遷化されました。
鶴見における伽藍整備と同時に、能登別院(祖院)再建にも着手してきました。鶴見への遷祖式の前年である10(同43)年9月12日、別院の大祖堂落成式が行われました。また放光堂落成及び客殿地鎮式も行っています。そして12(大正元)年7月、仏殿・客殿が落成しました。
このように現在、鶴見及び能登にある二つの大寺院の伽藍の大部分を禅師は同時に再建整備したのです。その努力と業績に対し、後に中興号を贈呈することになったと言えるのです。