總持寺中興石川禅師の遺徳を偲ぶ② ―100回御遠忌に寄せて―(2/2ページ)
愛知学院大准教授 菅原研州氏
授戒など271回の御親化
石川素童禅師のご業績は多岐にわたるが、宗門授戒会についても多くの功績が確認される。
現在の名古屋市大曽根でお生まれになり、9歳の時に関貞寺(名古屋市東区内)で鼎三即一老師(名古屋市南区・黄竜寺住職)を戒師とする授戒会で、父と一緒に戒弟に就いた。同年中に、泰増寺(名古屋市天白区内)の海雲大潮老師の下で出家して沙弥になられた。この時にご両親や受業師は、今後食べられない膾などを勧めたが、仏門に入ることを理由に石川禅師は断るほど、持戒の念が強かった。
『大圓玄致禅師語録』収録の「御住山地録」には、本山貫首に就任された後、各地の授戒会や因脈会、三帰戒授与など271回の御親化が記録され、平均で年に約16回となる。271回のうち、最多は新潟県の30回、次いで愛知県と秋田県が28回で続き、山形県も17回に及んだ。
總持寺が能登から現在地に移転し、遷祖移転式典が行われた1911(明治44)年にも18回の授戒会御親化を行われ、具体的には3月9日から大分県、同月17日から兵庫県、同月25日から愛知県、4月1日から大阪府、同月10・17・24日からが新潟県、5月2日から福井県、同月12・19・26日からが秋田県、6月4日から富山県、8月28日から新潟県、9月22日から宮城県、10月10日から長野県、同月16日から群馬県、この間に本山での法要(放光堂の御遷座と前貫首・西有穆山禅師の荼毘式)を修行され、11月14・21日からが岩手県での御親化となり、この年を終えられた。これほどの移動は、江戸時代には不可能だったが、1889(同22)年の東海道線全通を皮切りに、日清・日露の両戦争を経る中で、国内の鉄道網は急速に整備されたため、全国での活動が可能となった。
授戒会の戒弟数について、1915(大正4)年の覚王山日暹寺(現在の名古屋市千種区・日泰寺)での様子が、『名古屋新聞』(『中日新聞』の前身)3月9日号に掲載されている。同寺では3月8~14日まで行われ、7日全てに参加する正戒者が1200人、1日のみの紀念戒脈受戒者(因縁血脈授与者のこと)が3月8日のみで2千人に達したが、戒会全体では1万4千人の申し込みがあったと報じられ、連日3千人を超える方が寺内に滞在した。同寺では本堂に加えて更に200畳の道場を仮設したが、立錐の余地はなかったという。さすがは地元での開催だといえ、当時の県や市の首長なども参加した。同寺にはシャム(タイ)王国から贈られた仏舎利を祀る塔があるが、戒会期間中は特例の内拝が許され、賑わったという。
曹洞宗の授戒会は、江戸期の大乗寺の月舟宗胡禅師が復興したが、その頃の授戒会作法は、各地で実施に因んで作られ書写されて伝わるのみであった。しかし、石川禅師が授戒会の各差定や配役を務める際の口宣などを提唱された『戒会指南記』(大圓会・昭和7年)が残されており、内容から現代の授戒会作法の基本になったことが理解できる。
また、自著の『夜明簾』(大正4年)に収録された説戒「仏戒略説」は、面山瑞方禅師『若州永福和尚説戒』などを教義的な下敷きとしているが、石川禅師は誕生の御因縁から『沙石集』を著した無住道曉禅師(現在の名古屋市東区・臨済宗長母寺の開山)の影響を受けつつ、仏教説話を導入した説戒をされ、平易に授戒の功徳を示された。
このように、戒師を務められた回数や『戒会指南記』の後代への影響からも、近代の宗門授戒会を代表する方だったことは明らかである。