日本人の山岳信仰(1/2ページ)
日本山岳修験学会会長・慶應義塾大名誉教授 鈴木正崇氏
日本列島で生活する人々の文化を育んできたのは変化に富む山であり、思想や哲学、祭りや芸能、演劇や音楽、美術や工芸などの多彩な展開に大きな役割を果たしてきた。その中核にあったのが山を崇拝対象とする山岳信仰で、山に対して畏敬の念を抱き、神聖視して崇拝し儀礼を執行する信仰形態をいう。山を祀り、登拝して祈願し、舞や踊りを奉納した。山を祈願の対象とし、山との共感を通じて、日々の生活を見つめ直し、新たな生き方を発見した。山は蘇りの場として機能してきたのである。
日本の国土の4分の3は山や丘陵地であるという。日本の山は里からほどよい距離にあったことで多様な山の信仰を育み、山は人々の日々の暮らしの中に溶け込んでいた。日本の山は個性豊かで強い印象を残す。しかし、山は時には土砂崩れや大洪水を引き起こし、噴火するなど災いを齎す。山は祈りと畏れの対象であった。
山岳信仰は近代に大きく変質した。明治政府の神仏分離政策で神仏混淆の山岳信仰は根底から覆ったのである。平成30(2018)年は明治維新150年で同時に神仏分離150年でもあったが、多くの人にはその認識は薄い。日本人の精神文化の根底を支えてきた山岳信仰を通して、日本人にとって山とは何かを考え、近代の在り方を問い直す必要があろう。
日本の山岳信仰の特徴は仏教との融合である。6世紀に伝来した仏教には山林修行を理想とする考えがあり、僧は山で修行して小堂や寺を建立し、神と仏は融合していった。日本の各地には開山伝承が伝わる。開山とは僧や行者が前人未踏の山に登拝し地主神と出会い、霊地として祀ることで、その後は聖地や修行の場に発展した。山の多くは役行者(役小角)の開山を説く。これは鎌倉時代中期以降に山岳修行を体系化した修験道が成立し、開祖に祀り上げたことに基づく。
しかし、開山伝承は山ごとに個性的で開山者も多様である。歴史学者は史実とは認めないが、近年は開山に関する記念行事が相次いでいる。2018年は、養老2(718)年の金蓮による伯耆大山の開山1300年、仁聞による六郷満山の開山1300年が祝われ、地域起こしに貢献した。17年は泰澄による白山の開山1300年であった。他方、彦山は忍辱による宣化3(538)年の開山、羽黒山では能除太子による推古元(593)年の開山を説く。この年代は、仏教公伝(538年か552年)を意識して設定したとみられる。
開山伝承の多くは、仏教伝来以後、約150年を経過した平城京遷都(710年)前後から平安京への遷都(794年)までが目立つ。立山は慈興による大宝元(701)年、箱根山は万巻による天平宝字元(757)年、石鎚山は寂仙による天平宝字2(758)年、相模大山は良弁による天平勝宝7(755)年、日光山は勝道による天平神護2(766)年の開山を説く。開山とは日本の独自の伝承で、単なる山岳登拝以上の深い意味を持つ。前人未踏で禁断の不入の聖域の山に敢えて分け入り、山頂に至って神仏を拝み祀る実践が開山であり、苦行を通して山の霊力を身体に取り込むだけでなく、山の聖性を開示して、新たな秩序を確立する特別な行為であった。神仏の聖性の感得譚が語られ、開山者が次第に神格化されていく。
山頂祭祀の遺物の年代は考古学の成果に基づけば、平城京遷都の前後からで、仏教と山岳信仰の関係は8世紀頃に新たな段階に入ったと推定される。山頂登拝を証拠付けたのが1984年の大峯山の山上ケ岳(奈良県天川村)の発掘で、内々陣の龍ノ口周辺の護摩の跡は奈良時代後期と推定され、その後に護摩壇や寺院が建造されたことが明らかになった。山上ケ岳だけでなく弥山山頂の発掘品も奈良時代後期と鑑定され、大峯山の中央部も登拝祭祀の対象であった。明治40(1907)年に劔岳に測量のために登った柴崎芳太郎技官が、山頂で発見した錫杖頭は平安時代である。不入、禁忌、遥拝の地であった山の絶頂を極める登拝行が奈良時代に開始され、開山伝承の創出に繋がったと推定される。山頂登拝は、古代から現在まで続く長い伝統の実践となった。世界の中でもユニークな伝統文化である。