廃仏毀釈と寺院再興―土佐の場合(1/2ページ)
高知県立高知城歴史博物館館長 渡部淳氏
関ヶ原戦後、除封された長宗我部氏に代わり、土佐国主に任じられた山内一豊は、入国早々に宗教界の再編に着手した。
夢窓疎石を開祖とする吸江寺、長宗我部氏の菩提寺雪蹊寺、国分寺、竹林寺等の古刹に対する崇敬は忘れずとも、総じてその寺領は減少、山内家が掛川から招いた真如寺や要法寺が、厚くもてなされた。この2寺院に、称名寺(浄土宗)や円満寺(浄土真宗)なども菩提寺としてあったが、筆頭菩提寺たる真如寺の勢力が他を圧倒していく傾向にあった。
山内家が敷いた寺格制度に抵抗し、瑞応寺薫的和尚が獄死するなど、新秩序の定着までには当然紆余曲折があったが、総じて土佐藩の宗教界は安定していたといってよい。しかし、明治維新によって、この安穏は大きく破られる。
明治元(1868)年、新政府は神仏分離令を発する。それまで、神仏習合状況にあった寺社を、それぞれ明確に分離するという政策である。
僧侶が神社を管理する別当制を廃止、器具帳簿類も、寺院と神社に厳格に整理分類された。
土佐一宮である土佐神社では、鐘楼が廃棄され、表門の仁王像は安芸郡東寺に移動、その跡に舎人像が設置された。山内家が入部して始まった、法華経千部経転読法会も廃止された。一体的に活動していた土佐神社と善楽寺・神宮寺は分離、職員も社人と僧侶に区別された。
これらの政策を指揮したのは、高知藩権大属社寺係北川茂長、少属濱田八束、近重八潮彦たちであり、ともに国学(平田学)を修めた藩吏である。北川は職務に専心しつつも、没落する寺院の僧侶救済策を藩庁に建言するなど、冷静な判断も忘れなかった。しかし、建言は却下される。
いずれにしても、来る廃仏毀釈の激化を前に寺院は没落、困窮寺院の廃寺や統合が行われ、多くの仏像や文書が失われ始めた。
明治3年4月23日、高知藩は寺院から土地山林を没収し、「僧徒還俗を欲する者好に任すべし」と、僧侶の還俗を勧誘した。大寺院であればあるほど、檀信徒の喜捨によるものは少なく、藩主家から受けていた寺領を失った寺院は没落するしかなかった。さらに、同年11月7日、山内家は高知城内に山内神社を勧請して祖宗を祀り、「向後御仏祭一切御廃止」した。藩庁からは「御菩提所諸寺院ニ安置之御霊牌不残御取纏メ神式御改祭相成」との触れが出されていて、現在、「大居士」の下に「神儀」の2文字が追彫された藩主位牌が数基確認できる。土佐における廃仏毀釈の、本格的始まりである。
藩は当初10カ寺程を残し、残りは全て廃寺にする予定であったというが、抗議の焼身自殺を図った長谷寺禅訥和尚のごとき、意志強固な僧侶たちの抵抗もあり、廃寺は思うように進まなかった。とはいえ、『高知縣市要』によれば、当時615あった寺院の内439カ寺が廃寺とあり、その廃絶率は71%にのぼった。後に各宗派から提出された廃寺届によれば、明治4年5月に廃寺となったものが多く、その数は真言宗で200、曹洞宗や臨済宗で100を優に超える。ちなみに、その年の3月、山内神社造営が成っている。
廃寺になった寺院の僧侶たちは還俗し、例えば筆頭菩提寺真如寺住持は井上寿櫟として神職となり教導職を務め、竹林寺中ノ房住持は常石堅扶と名乗り土佐神社主典となった。吸江寺の待月庵住持も神職加藤待月となっている。
廃寺の仏像も行き場を失い、他寺に避難あるいは地中に埋める、などで守られた仏像がある一方、売り払われた図像仏具も数多くあったという。