排仏崇仏論争の虚構(1/2ページ)
國學院大講師 有働智奘氏
西暦548年に百済王から仏教が公式に伝えられると(仏教公伝年代は従来の西暦538年、552年説が有力であったが、近年では西暦548年説がある。岡田莊司編『古代の信仰・祭祀』竹林舎所収の拙稿を参照)、その受容について蘇我氏と物部氏による議論が起こった。
これは一般的に「排仏崇仏論争」と呼ばれ、世間のみならず、仏教界や知識人の間でも史実と思われている。一方、史学ではこの論争は文献に同じ内容を繰り返して記述されており、「蕃神」「仏神」などの表現や内容が中国典籍と類似しているため、仏教伝来記事は歴史的事実ではなく、後世の作為的な記事とする指摘がある。しかし、この記事には難波堀江の棄仏や大野の丘の造塔、海石榴市における尼僧の刑罰など、場所や人名が挿入され、これらは中国典籍にみられない。したがって、全て中国典籍を模倣したのではなく、むしろ、中国典籍を参考にして史実に近い日本の伝承を記録したものではなかろうか。本稿ではそれらについて検討していきたい。
物部氏は軍事、警察、司法と神祇祭祀に関わる職掌であったため、一般的に物部氏を排仏の率先者とする。しかし、物部氏が仏教を排除したと断定できない史実が伺える。
まず、物部氏が編纂に関わったとされる『先代旧事本紀』(平安前期)に仏教排除を実行したような記載が全くないことが挙げられる。また『元興寺縁起』では物部や中臣の名がみられず、仏教信仰の反対者は「餘臣」と表現している。これらは物部氏が排仏推進の率先者でないことを示していると考えられる。また、物部の本拠地から飛鳥時代初期の遺構が残る渋川廃寺(大阪府八尾市)が発見されている。これ以外にも物部氏が創建したという寺院がある。
三河国の国造であった物部氏が関与したと考えられる愛知県内最古の北野廃寺が挙げられ、近隣に物部守屋の息子が創建したという伝承が残る真福寺がある。また、関東最古の寺谷廃寺も物部氏が関与していたことなどが指摘されている。さらにこのような地方の物部氏と仏教の関係は、近江国の長安寺と法隆寺領が物部領であったという記録と結びつく。信仰者の立場から考えるならば、守屋が敗死したからといってその子息が現実的に「排仏」から「崇仏」へ信仰をたやすく変えられるのかという問題が残るであろう。
さらに、『日本書紀』の継体天皇紀、欽明天皇紀をみると、日本と百済の交流に関与した官僚として物部氏が多く登場する。そのため、蘇我氏のみが文化、技術を独占したとは考え難く、東アジアに拡散していた仏教を物部氏が知らなかったとも言い難い。
加えて、物部氏の職掌をふまえて考えると、文献に記す一連の行為は、単に「疫病」という穢れを祓う神事であり、疫病をもたらした「ほとけ」神に関与した祭祀者へ刑罰を執行したとみなすことができる。仏像等を廃棄して破壊、弾圧した残虐行為にみえるが、物部氏は祭祀氏族としての役割、そして刑部として警察、司法権の職務を実行したのみといえる。その職務は仏という蕃神の罪を祓う祭祀の執行、及び仏像、塔などを焼き払い、川へ流し、蕃神の罪を祓う神事となる。つまり、仏の住まいを焼いたり、河口へ流したりする行為は、神が居ます世界(国)へ帰坐を求める方法であり、現在、神道の祭儀として残るどんと焼きや人形流しなどのような祭祀の一種であった。
一方、蘇我氏は神祇を軽視し、率先して仏教を受容して、仏教のイデオロギーを得たという認識が強い。しかし、それは神祇信仰を廃止したということではない。