排仏崇仏論争の虚構(2/2ページ)
國學院大講師 有働智奘氏
蘇我氏の居住地である奈良県・曽我玉造遺跡から神祇祭祀の遺構がみられ、後世の『延喜式』「神名上」には大和と下総に蘇我氏の神社が記されている。さらに注目すべきは、『書紀』欽明16年条の「建邦之神」奉祭記事である。百済聖明王が戦死し、わが国へ救援を要請してきた百済に対して、蘇我稲目が「建邦之神」の祭祀を進言し、仏教に傾倒する百済を非難して神祇崇拝の重要性を諭した。このことは韓国扶余の陵山里寺址の発掘成果と一致する。つまり、蘇我氏も神祇信奉の氏族であった。
物部氏の行為が神祇祭祀の一環の行為であったことを述べたが、古代の神観念を考えてみよう。まず、わが国では「客人神」の信仰があり、他国の神も尊重されていた。その信仰を排斥することは、外来文化に対して「かしこきもの、奇しきもの、稀なるもの」という認識をもっていた「客人神」信仰に齟齬する。この神の中には『備後国風土記』に記される「蘇民将来」のような害を与える疫病神もいる。この伝承は害を与える神も丁重に祭祀すれば、安寧を与えるということである。仏教受容の弊害は、まさしく疫病である。したがって、蘇我、物部氏の論争は「ほとけ」という疫病神の祭祀の方針をめぐる論争であったと考えられよう。
そこで、他国神と表現された仏教伝来記事を神祇信仰に則してみると、神仏の祟りが繰り返されている。仏教思想において、仏陀の祟りを説く経典はみない。一方、わが国の祟りについては『書紀』の崇神紀にその対処記事が述べられ、祭祀する神の適任者を選定して、その神の祭祀権を委託している形態がみられる。これは古代における祭祀は国家と氏族との二重構造であり、仏教も当時の神観念と同様に蘇我氏に委託して祭祀(法要)が執行された「委託祭祀」と考えるのが妥当であろう。
また、崇神紀の三輪山祭祀をみると、宮中に天津神、国津神を一緒に祭ったことによって祟りが起きた。この神祇信仰の考え方をふまえると、国神と他国神を宮中に並べて奉祀すれば、祟りを生むことが想像できる。そのため、物部、中臣の両氏は、他国神(蕃神)である仏陀を宮中祭祀に組み込むことに反対したとも考えられる。
このように仏教伝来記事では必ず仏教信仰、疫病流行、仏を祓う、災害・疫病という同じ内容が繰り返して循環している。まさしく、これは古代日本の神観念である祟りの構造である。つまり、仏教伝来記事は祟りという神観念から生じた祭祀方法の争いを記したのであった。
この仏教伝来記事を「排仏崇仏」という論争とすることは、管見では中世までの史書でみない。「排仏・崇仏」という観点を提示する典籍の初見は、谷川士清『日本書紀通證』(1762年刊)である。国学者である谷川は、儒家の「排仏」説を紹介している。したがって、「排仏・崇仏」という用語は、近世以降の儒学、国学者による排仏意識で創られたと考えられる。例えば、平田国学の影響を受けた飯田武郷は、自著『日本書紀通釈』(1899年)において、蘇我稲目は崇仏家であって、敬神を説くはずがなく、百済に建邦之神の祭祀を教諭した事実はないと決めつけて解釈しており、後の研究者の多くがそれに則って『書紀』の神仏関係を考察していった。つまり、「仏教公伝」記事は、近代の学者が「排仏崇仏論争」と勝手に認識して名付けた歴史事件であった。
このように仏教伝来の論争は、神祇側が異教徒として排斥したのではなく、疫病をもたらした神を祓い、その神を信奉した人々を処罰したと看取できる。「排仏」という用語は、近世・近代において作られた造語である以上、仏教伝来の事象を近世、近代の攘夷思想に偏った研究者たちで形成された言語で表現することは適切ではない。古代中国や明治維新で行われた排仏は、仏教者の追放、還俗や仏教文物の廃棄、破壊行為を行い、仏教廃絶の意識で行われた「廃仏」行為であるが、その「廃仏」という行動の観念によって、古代における仏教伝来の本質を捉えてしまったのである。しかし、実際の蘇我・物部氏による対立は、渡来神の祭祀方針の議論であり、そこに「排仏」という意識はなかった。したがって、排仏崇仏論争ではなく、仏神の祭祀方法と信奉をめぐっての論争であった。