令和御代始考 ― 譲位こそが皇位継承の本来の形(1/2ページ)
泉涌寺心照殿研究員 石野浩司(聖咒)氏
前回、光格天皇の譲位が文化14(1817)年であったから、今回は202年ぶりの「譲位」「上皇」ということになる。
光格天皇とは、後桃園天皇の皇女・欣子内親王を配偶者として、閑院宮家から婿入りした方である。「中御門~後桃園」直系継承が断絶したゆえの「傍系相続」であった。中宮欣子との間に寛政12(1800)年、待望の温仁親王が誕生するも生後2カ月で夭折する。この不首尾を見届けたかのように後桜町上皇が文化10(1813)年に崩御、光格天皇は典侍・勧修寺婧子所生の惠仁親王(仁孝天皇)に譲位して上皇となる。中宮欣子は文化13(1816)年に悦仁親王を生むが、やはり文政4(1821)年に5歳で夭折する。
光格天皇の実父が閑院宮典仁親王で、その弟が摂関家に養子に入った鷹司輔平である。この輔平の孫・(贈皇太后・新皇嘉門院)鷹司繫子と仁孝天皇の間に生まれたのが安仁親王であるが文政4年に1歳に満たず夭折、女御繫子の方も文政6(1823)年に皇女を難産して産褥死する。妹の鷹司祺子(尊称皇太后・新朔平門院)も入内したが子女に恵まれない。そこで典侍・正親町雅子(新待賢門院)所生の統仁親王を、女御祺子の養子として践祚されたのが孝明天皇であった。
中宮欣子(新清和院)・温仁親王(成不動院)・悦仁親王(瑠璃光院)・安仁親王(妙荘厳院)の陵墓は、現在も泉涌寺陵墓において宮内庁の管理と皇室の祭祀をうけている。その群を抜いて鄭重に造作された七重石塔や宝篋印塔には、後桃園皇統の継承者としての正統性が可視化されている。光格天皇から以降を「後の月輪陵」と称し、後桃園院以前の「月輪陵」と区別するのは、「傍系相続」によって皇統が移転したからである。
後桜町上皇が傍系相続を見守り、光格上皇が皇別摂家との婚姻を後見したように、皇位継承の難局にこそ「上皇」の存在理由があるという点をまずは指摘しておきたい。
古代東アジア諸国はみな唐律令を継受して中央集権の律令制国家を成立させた。日本は701年『大宝律令』を制定(残存せず)、757年『養老律令』を施行した。仁井田陞『唐令拾遺』により唐令と日本養老令を比較すると、その違いは「太上天皇」である。養老儀制令に「譲位の帝を太上天皇と称する」とあり、上皇と天皇とに格差はない。一方、唐令において皇帝に並ぶ存在はない(中国史上にも玄宗皇帝のような上皇は存在するが、ある種の「臣下」である)。中国の歴代王朝の簒奪では、「策を禁中に定め」た近臣が「皇帝の印綬」さえ奉呈すれば容易に廢立しえたからで、死穢観念のない中国では柩前即位が常例ですらあった。
群臣の「神鏡剣璽の奉献」による皇位継承は『日本書紀』の中でも「β群」と呼ばれる本文にみえる慣例文で、こうした漢籍による文飾でもある。かかる恣意的な皇位継承への制度批判の醸成が「壬申の乱」後、「譲位宣命」を法源とする継承法に改変された。ここに『日本書紀』編纂の目的があり、天智朝制定の不文律「不改常典」の本義がある。実際、持統女帝は嫡孫の文武天皇に譲位した後も「並び坐して此の天下を治め賜ひ」と回顧する『続日本紀』慶雲四年七月詔は、この太上天皇の補弼権下での直系父子相続のことを「天地と共に長く日月と共に遠く改るまじき常の典」だと釈している。「天武天皇→(持統上皇)草壁皇太子→文武天皇(元明上皇)→(元正上皇)聖武天皇」という直系父子継承を、3女帝が上皇となって補弼した史実が、最初期「太上天皇」の実像であった。皇位継承法とのセットで語られる、こうした太上天皇の機能論的な本質を、先行研究は見逃してきた。