令和御代始考 ― 譲位こそが皇位継承の本来の形(2/2ページ)
泉涌寺心照殿研究員 石野浩司(聖咒)氏
『大宝律令』と一対をなす国家プロジェクト『日本書紀』30巻は、持統天皇11(697)年8月乙丑朔、孫の文武天皇に譲位する「策定禁中」記事に畢竟する。「アマテラスの神勅」に始まった王朝のグランドデザインは太上天皇「持統女帝の譲位」に終着、しかも持統女帝は諡号「高天原広野姫」である。神話学の手法でいえば「アマテラス」と「太上天皇」とはイメージとして限りなく一つのものである。それは日本国号や天皇号とともに「太上天皇」も『大宝律令』の初期設定であったことを意味する。譲位こそが皇位継承法であり、天皇と太上天皇は初めから一対であった。
長元9(1036)年、後一条天皇は平安宮内裏の清涼殿において「在位中の天皇」のまま崩御する。『左経記』によれば①先ず御譲位あるべきの由、詔を奉じた。②(虚構の譲位宣命)を東宮に伝達する間、忽に天皇が晏駕(崩御)された。③譲位の儀礼として昼御剣を昭陽舎(東宮)に持参する。④次に近衛将曹による剣璽渡御(践祚)。かかる打開策の目的とは、けっして「内裏触穢の回避」などではない。
大行天皇を生存しているように擬装する「如在の儀」とは、「崩後譲位」を目的とした制度である。『古事類苑』帝王部10・譲位下(549ページ以下)には、この後一条天皇「長元例」と後冷泉天皇「治暦例」とが引かれ、『帝室制度史』第3巻(438ページ)には鳥羽天皇例を含めてある。つまり皇位継承は「譲位」であるべきとの前提における緊急避難が「崩後譲位(如在の儀)」というわけである。
治承7(1183)年「寿永の乱」では、三種の神器が不在でも、後白河上皇の院宣で後鳥羽天皇は践祚する(この瞬間に神器を擁するも安徳天皇は上皇になる)。承久3(1221)年「承久の変」で3上皇が配流に処せられた時、鎌倉幕府が後高倉院守貞親王を「治天」に据えて「院政」を要請したのは、その院宣で後堀河天皇を即位させるためである。天皇未経験者を「上皇」にするのは乱暴な話ではあるが、後鳥羽院の同母兄である守貞親王には皇位継承権はある。一方で観応3(1352)年、「観応の擾乱」をうけた室町幕府が、広義門院西園寺寧子の仰せを「院宣」に擬して後光厳天皇を践祚させた。上皇全員を南朝方に拉致されたゆえの非常手段であったが、神器の所在よりも「上皇」こそが皇位継承の法源であったことの傍証である。
上皇不在の場合が前掲「長元先例」である。仁治3(1242)年に四条天皇が崩御された時、鎌倉幕府に指名された後嵯峨天皇には、宣命を出せる上皇が存在しなかった。『後中記』に「如在の儀」とあるように「四条天皇の崩後譲位」に依拠するほか手段はなかったのである。
現在の皇室は、直系父子継承としては光格天皇を流祖(後月輪王家)とするが、現行『皇室典範』のままでは次回に兄弟相続(傍系相続)が予定され、ひとつの危機的状況にある。かかる皇位継承の難局に対処すべく、もともと天皇制に内在する安全装置が「太上天皇(上皇)」である。皇室の繁栄を願うものとして今般の御譲位を慶賀する所以でもある。