行基の活動を支えた地域社会(1/2ページ)
大阪大大学院助教 溝口優樹氏
奈良時代前半に活躍した行基は、畿内各地を遊行し、後に「四十九院」と称される多くの寺院(道場)を建立するとともに、社会事業を実施したことでよく知られている。その具体的な内容は、安元元(1175)年に泉高父宿祢によって著された『行基年譜』によって知ることができる。『行基年譜』には、行基が関与した施設として橋・直道・池・溝・樋・舩息(船着き場)・堀・布施屋が掲げられ、それぞれ具体的な施設名や所在地、規模などが記されている。このなかには、行基よりも前に築造されたことが明らかな狭山池も含まれており、全てが行基によって新規に造営されたわけではない。既存の施設を改築・修復した場合も含め、何らかの形で行基が整備に関与したものである。
こうした一連の社会事業は、行基が単独で成し遂げたわけではない。その背後には、多くの人々の協力があった。『続日本紀』に掲載された行基の薨伝(遷化した際の記事にともなう伝記)によると、橋や堤をつくる際には、行基の評判を聞いた人々が集まってきて労働力を提供し、わずかのうちに完成したという。この記事からは、行基や彼とともに遊行する弟子たちだけでなく、遊行先の現地住民、さらには周辺地域の住民も社会事業に参加していたことがうかがわれる。ただし、具体的な様相は判然としない。
ここで、行基の活動に参加した人々の具体的な様相を知ることができる資料として注目したいのが、大野寺の土塔から出土した文字瓦である。『行基年譜』によると、大野寺は神亀4(727)年、行基が60歳の時に和泉国(当時は河内国)大鳥郡大野村で起工された。現在の大阪府堺市中区土塔町には土を盛って造られた大野寺の仏塔が遺っており、土塔と呼ばれている。近年、土塔は堺市によって発掘調査が実施され、遺構の詳細が判明した。また、大量の瓦も検出されており、文字を記したものも1200点以上ある。記載内容の大半は人名であり、僧尼関係のものと俗人のものとに大きく分類できる。土塔の文字瓦にみえる俗人の人名のうち、最も多い氏族は土師氏である。大野寺が建立された大野村は大鳥郡土師郷に相当し、土師氏が拠点を構えた地域であった。
『行基年譜』によると、行基は大鳥郡土師郷において土室池・長土池、野中布施屋などを整備している。また行基は、大野寺に対応する尼院(香琳寺)を近接する深井村に建立しており、深井郷には薦江池も整備されている。これらは、地元の土師氏が整備に関与したとみてよいだろう。大鳥郡土師郷やその周辺で整備された諸施設のうち、野中布施屋は道路を往還する人々(南海道が近辺を通っていたとすれば、それを利用する運脚夫や役民などが想定される)を宿泊させる施設である。このような布施屋は、行基による福田行の一環として設置されたものといえよう。だとすれば、行基による福田行は、土師氏のような現地住民によって支えられていたことになる。一方、土師郷周辺に整備された池は灌漑施設であり、現地住民の農業生産を支えるものであった。したがってこの場合は、土師氏などの現地住民が主体となり、行基がそれを支えていたとみることもできる。
ところで大鳥郡の土師氏は、かつて百舌鳥古墳群の造営に従事した集団の後裔であり、それに関わる土木技術を保持していたと考えられる。また、人名瓦には大村氏や荒田氏、神氏といった氏族もみえる。土塔の南に広がる泉北丘陵には、陶邑窯跡群とよばれる須恵器窯を中心とした遺跡群が展開していた。これらの氏族は、陶邑窯跡群が所在する地域に拠点があり、窯業生産との関わりが想定されている。このように、土木技術をもつ土師氏や、窯業技術をもつ陶邑窯跡群周辺に住む人々の得意分野を生かした建造物として、土を盛った上に瓦を葺くという、特異な仏塔が造営されることになったのではないだろうか。ちなみに、土塔の築造には大量の土砂を要するが、灌漑開発は土砂を発生させる。この地域における土塔の造営と池の築造は、表裏一体の関係にあるといえよう。