行基の活動を支えた地域社会(2/2ページ)
大阪大大学院助教 溝口優樹氏
現地住民の得意分野を生かした事業という点では、河内国茨田郡(現在の大阪府守口市・門真市・寝屋川市など)とその周辺における活動もあげられる。『行基年譜』は、茨田郡に所在する樋として高瀬堤樋(高瀬里)、韓室堤樋(韓室里)、茨田堤樋(茨田里)を記す。これらは淀川水系から集落域を守る堤に設けられた取水施設である。
また、『行基年譜』は摂津国島下郡高瀬里にあるという高瀬大橋や、高瀬から生馬(生駒)大山に登る道の間にあるという直道も載せる。高瀬大橋は河内国と摂津国の国境をなす淀川に架けられた橋である。現在の大阪市旭区太子橋に位置する淀川左岸の河川敷からは古代の瓦が見つかっており、旧地名から橋寺廃寺と呼ばれている。橋寺廃寺は、明治期における淀川の改修以前は右岸に位置していた。
『行基年譜』をみると、高瀬大橋を管理したと目される高瀬橋院も摂津国島下郡にあったとされ、淀川右岸に立地したとみられることと矛盾しない。直道については高瀬大橋から東へ延びて後の清滝街道につながる道路であろう。高瀬大橋から西へ進めば、崐陽施(池か)院など行基関連施設が集中する猪名野に出て、山陽道に接続する。一方、直道から東へ進んで生駒山地を越えると、乾谷を経て恭仁京や平城京へ至る。恭仁京と平城京、どちらとの接続を意識して整備されたかは、起工時期の問題と併せて考えなければならないが、いずれにせよ西国方面と都を結ぶ交通ルートとして直道が整備されたとみることができる。
この直道が通る河内国茨田郡は茨田堤の所在地としても知られているが、興味深いのは築堤や道路敷設に共通の土木技術が用いられたとされる点である(茨田堤の遺構は不明)。茨田郡は、かつて茨田堤の築造を担った茨田氏や渡来系氏族が居住する地域であった。茨田郡を中心とした直道の整備は、こうした築堤技術をもつ人々の土木技術が生かされているのではなかろうか。薨伝によると、行基は布教にあたって人々の才能に応じて指導し、みな善に赴かせたという。土塔の造営や直道の整備のように、現地住民の得意分野が行基の社会事業に生かされているとすれば、イメージが重なってくる。
薨伝によると、行基の社会事業に参加したのは、各地を遊行する行基の弟子たちや現地住民だけではなかった。実際、土塔の人名瓦からは、遠方の人々が造営に協力した様相もうかがわれる。例えば「茨田」と刻まれた瓦があることから、茨田氏が土塔の造営に参加していたことを知ることができる。この茨田氏が河内国茨田郡の人物であるとすれば、地元の茨田郡でおこなわれた樋や橋、道路の整備に携わる一方で、遠く離れた大鳥郡における土塔の造営に協力していた様相が浮かんでくる。人名瓦には他にも、「村山連」と記したものがある。村山氏は河内国丹比郡狭山郷に居住していたことが知られている。この地域には、行基らが修築をおこなった狭山池が所在している。村山氏は、地元でおこなわれた狭山池の修築に参加する一方で、土塔の造営にも協力していたのであろう。
このように、文字瓦からは近隣地域以外からも人々が造営に参加していた様相がうかがわれるのであるが、彼らの地元でもまた、行基の活動がみられるのである。こうしてみると、行基がおこなった社会事業は、各地の現地住民によって支えられたというだけでなく、現地住民が主体となる事業に行基が協力した側面、さらには広域の人々が相互に協力しあう結びつきのうえに成り立っていた側面もあるといえよう。