存在を支える「まなざし」の考察(2/2ページ)
時宗教学研究所所員・一向寺住職 峯崎賢亮氏
レインのいう補完性は、お互いの「まなざし」によって支えあっているにしても、常時視線を交わしあっているわけではない。ただ、相手が不在の時でも、相手からの「まなざし」が甦るからこそ、自らの存在を支え続けているのである。例えば実際に視線を交えていた時には意識しなかったのに、相手が不在となった時、ある種の感情を呼び起こす「まなざし」となって甦る。相手から自分に向けられた「まなざし」は、自らの体験や記憶の中では重要な位置を占めていて、相手が不在の時に、不在者からの「まなざし」として意識されるのである。記憶の中に残る、この不在者からの「まなざし」こそが、あらゆる状況において、私という存在を支えている「まなざし」なのである。そして死者は、常に不在者である。私という存在を支えている、仏となった死者からの「まなざし」もまた、不在者からの「まなざし」に他ならない。
日本人は特に、死者からの「まなざし」を意識しながら生きている。「あの世にいる親父が、こんな俺の姿を見て、きっと嘆いているだろうな」といった嘆きのことを、死者からの叱責という。筆者が研修医時代に主治医をした、ある終末期の患者は「死ぬのが怖くないと言ったら嘘になるが、でも少し期待もしている。あの世にいったら、戦死した戦友たちに、あの後日本がどうなったか、話してやるんだ」と話していた。
人は何かを契機にして、死者からの「まなざし」が甦る。だからこそ、死者からの「まなざし」を呼び起こすアイテムが重要なのである。大災害後、被災者が必死になって位牌を捜すのは、日本人にとって位牌は、仏となった死者からの「まなざし」を甦らせる大切なアイテムだからであろう。
生者としての「あなた」からの「まなざし」と、死者となった「あなた」からの「まなざし」は、その感じ方が異なる。それは、必ずしも親しい間柄ばかりではない。図らずも傷つけてしまった相手や、逆に自分が傷つけられた相手が生きている間は、どれほど悔やんだり、怨んだりしても、彼らが死者になると、生きている時とは異なった感情が湧いてくる。生者であった時にはあまり意識しなかったその「まなざし」を、相手が死者となった時に、より鮮明に意識することもある。
相手が生者で、しかし不在である時に意識する不在者からの「まなざし」と、相手が仏という死者になった後に意識する不在者からの「まなざし」とは、ともに不在者からの「まなざし」であっても、同じではない。死者から、どんな思いでも受け入れていつも見守っている仏になった、と感じられるようになると、今まで記憶の中にある、生者の時代の不在者からの「まなざし」が、浄化され、増幅され、時に美化される。それこそが、仏となった「あなた」からの「まなざし」であり、この転換に重要な役割を果たすのが、葬儀という儀式なのである。
世界的には偶像を信仰するスタイルを偶像崇拝といい、特に、キリスト教、イスラム教といった一神教の宗教では否定されてきた。しかし日本では、特に欧米文明が急速に流入してきた明治時代以降でも、仏像は、大切な信仰対象となってきた。その理由は何か。仏像は、基本的には人間の姿をしている。日本人の多くが、仏像の前に立つと、自然に真摯な気持ちになるのは、仏像を介して、仏からの「まなざし」を意識するからであろう。「誰も見ていなくとも、神様仏様がご覧になっているのだから、悪いことをしてはいけない」という、日本人の伝統的な倫理観こそが、仏からの「まなざし」を意識することの、あらわれである。我々日本人は、仏からの「まなざし」を意識して、思わず背筋をただすことで、自分をなし得る、というところがある。