日本近代化の名脇役「尾崎三良」(2/2ページ)
駒沢女子大准教授 下川雅弘氏
明治15年12月に勅任官となり、政府高官の立場を確立すると、三良は井上馨や伊藤博文らの欧化政策に反発する。とくに井上条約改正案に対しては、明治20年6月より反対運動を展開している。渡欧の経験が、かえって日本のアイデンティティーを守ることの重要性を意識させ、安易な欧化主義への危機感を抱かせたようである。また、明治21年5月からは、フランスのお雇い外国人ボアソナード起草の民法を、法律取調委員として調査し、日本の慣習を維持すべきとの立場から、司法大臣山田顕義と激論を交わした。
さらに、明治18年、伊藤博文らが内閣制度の創設と、太政大臣三条実美の内大臣就任を画策するなか、三良は閑職である内大臣に就任すべきでないことを、実美に強く諫言している。実美に政治的実権を持ち続けさせることで、三良は薩長藩閥を牽制しようとしたのである。
ところが、薩長の調停役を自任する実美は、内大臣就任を甘受してしまう。また、明治22年10月、大審院への外国人判事任用などを骨子とする条約改正案を策定した外務大臣の大隈重信がテロにより遭難し、黒田清隆内閣が崩壊すると、三良は実美を正式な総理大臣とした組閣を望んだ。ところが、実美は山県有朋が組閣するまでの中継ぎとして、総理大臣代理を引き受けてしまったため、三良は大いに失望している。
明治23年に帝国議会が開設されると、三良は貴族院勅選議員として、民党と政府が対立する初期議会への対応に奔走する。明治24年6月、三良は勅任官一等、法制局長官として法制官僚の頂点に立つものの、明治25年8月に三良を快く思わない伊藤博文より福島県知事就任を勧められると、これを左遷として藩閥専制に慨嘆し、未練無く政府を去ってしまう(貴族院議員は終身)。
晩年の三良は、明治29年6月に男爵の爵位を与えられるとともに、宮中顧問官・京釜鉄道会社常務取締役・維新史料編纂会委員など、大正7(1918)年10月に77歳で死去するまで、その活躍の場を広げていったのである。
ところで三良は、京都の公家社会のなかから、明治政府の高官へと立身出世を果たした数少ない政治家の一人である。そもそも明治維新は、京都の公家社会にとって、王政復古を成し遂げたにもかかわらず、これまでの伝統の多くを崩壊させるという思いがけない結果をもたらした。明治2(1869)年の東京遷都をはじめ、同年7月には朝廷の官職(百官)がすべて廃止され、さらに、明治4年7月に新官制として三院制が採用されると、実美や岩倉具視といったごく限られた人物を除いて、公家華族は新政府の要職から外されてしまう。また、百官の廃止は、朝廷の事務や雑務にたずさわってきた地下官人・非蔵人や使番・仕丁、公卿の雑用をする近習、門跡などに仕える諸大夫ら(以上を官家士族という)の職を奪ったのである。
こうした旧公家社会出身の人びとの困窮に対して、三良は彼らの救済にも力を尽くしている。明治6年にイギリスより帰国した三良は、無用の長物のように扱われていた公家華族を目の当たりにすると、将来の議会開設を念頭に置いて、彼らに立憲君主制や万国公法などを啓蒙し、華族会館設立の準備に奔走した。明治7年6月に華族会館が創設されると、顧問として英国憲法史を講じている。また、明治12年7月、京都在住の官家士族への授産を目的として産業誘導社を開設し、京都第百五十三国立銀行の設立準備にも尽力した。
さらに、明治16年、官家士族の子弟への教育を目的とした平安義校の開校に向けて力を注ぎ、明治24年には平安義会を組織して、官家士族の子弟への奨学事業を展開し、明治33~44年まで、同会会長として官家士族の救済に腐心したのである。
以上のように、明治維新後の急激な社会変化のなかで、三良は、欧化政策に傾く薩長藩閥勢力にも臆することなく、日本のアイデンティティーを守るという信念を貫く一方、自身の渡欧経験を生かした柔軟な姿勢で、近代日本の基盤整備に重要な役割を果たした法制官僚であった。また、薩長への牽制と京都閥の結集を念頭に実美を終生支え続け、公家華族や官家士族の救済などにも奔走した三良には、近代京都にとっての存在意義という観点からも、もう少し高い評価が与えられてもよいのではなかろうか。