日本近代化の名脇役「尾崎三良」(1/2ページ)
駒沢女子大准教授 下川雅弘氏
昨年は明治維新150年を記念したさまざまな催しがあり、西郷隆盛・坂本龍馬らはとくに脚光を浴びた。維新の舞台である京都出身の功労者といえば、三条実美・岩倉具視くらいしか一般には知られておらず、人気もあまり高くはない。本稿では近代の京都および日本にとって、重要な役割を果たした尾崎三良という人物に注目してみたい。
尾崎三良は、天保13(1842)年1月、京都西院村の旧家に生まれた。尾崎家は郷士の家系であるが、父や兄は諸大夫として仁和寺宮に仕えている。嘉永4(1851)年9月に父が没すると、腹違いの兄に疎まれていた三良は熨斗目織の秦平次郎の養子に出された後、入江御所(三時知恩寺)に寄せられ、家司の中村主馬から教育を受ける。その後、西本願寺の従臣山本弥左衛門の養子となるも折り合い悪く、安政5(1858)年、主馬の紹介により公家の烏丸光政に仕えた。三良の立場は一代限りの奉公人(いわゆる三石士)で、年3石5斗という薄給であった。
三石士に飽き足らない20歳の三良は、文久元(1861)年7月、所持品をすべて売り払い、無断で伊勢の儒学者斎藤拙堂のもとを訪ねる。和漢洋折衷の実学を唱え、新知識の採用に努めていた拙堂への入門を望んだが、奉公先を勝手に出奔した三良は受け入れられず、無一文で泣く泣く帰京した。京都に戻ると旧知の三石士から、公家の冷泉為理が若侍を必要としていると聞き、年3石で冷泉家に出仕したのである。
この頃の朝廷では、三条実美が尊攘派公卿として名声を高めつつあった。世に出る方策を思案していた三良は、文久2(1862)年4月、三条家に奉仕する戸田造酒という嗣子のない老人の養孫となる。戸田雅楽と名乗り、三石士として三条家に仕え始めたばかりの三良は、幕府に攘夷実行を求める勅使となった実美に従い、同年10月に江戸へ下った。
ところが、帰京後の文久3年8月、会津・薩摩両藩などの公武合体派が、尊攘派の長州藩を京都から追放し(八月十八日の政変)、実美をはじめとする尊攘派の七卿も京都を後にすると、三良もこれに同行した。元治元(1864)年7月の禁門の変では、三良も実美に従って京都を目指すが、途上で長州軍の敗走を聞き、元治2年2月には、実美とともに太宰府に移る。
太宰府での三良は、諸藩士との交流のなかで、しだいに攘夷論から開国論に転じ、慶応3(1867)年、実美に許されて長崎に至り、アメリカ領事や海援隊諸士らと接触する。同年10月には坂本龍馬らと長崎から京都へ上り、大政奉還直後に龍馬とともに職制案(後の新政府綱領八策の原案)を策定した。その後すぐに西郷隆盛・大久保利通らと大坂より同船して西に向かい、太宰府の実美に大政奉還などの政情を報告する。
実美とともに帰京を果たした三良は、西洋の実情を見聞したいと願い出て、慶応4(1868)年3月、実美の嗣子三条公恭の従者として、神戸よりロンドンに向かう。公家社会出身者としては、これが初の洋行であった。イギリスではオックスフォード大学教授のモリソン宅に下宿し、法律などを学んだ。この間、三良はモリソンの娘バサヤと結婚し、3女をもうけている。
明治6(1873)年10月、三良は妻子を残して帰国し、戸田姓から尾崎姓に復帰している。明治7年3月には戸田八重(戸田造酒の孫)と結婚し、明治13年11月には妾の美知との間に長男洵盛が誕生する。
なお、同年6月にはロシア公使としてペテルスブルグに至り、明治14年7月、ロンドンに立ち寄りバサヤと離婚すると、9月に帰国している。その後、明治20年5月、バサヤとの間の長女英子が一時来日し、明治38年10月に英子は尾崎行雄の後妻となる。
さて、明治6年に帰国した三良は、伊藤博文らのもとで法制官僚として辣腕を振るう。また、明治6年の政変で憔悴しきっていた実美を補佐し、その後も実美を終生支え続けていく。