大本山總持寺石川素童禅師百回遠忌を迎えて(2/2ページ)
明治大名誉教授 圭室文雄氏
その後、石川素童禅師はこの年8月6日に總持寺の本山移転について加賀国・能登国・越中国(石川県・富山県)の曹洞宗寺院に説明するため、輪島市門前の總持寺へ向かった。穴水港から石川素童禅師一行が總持寺に向かうおり、禅師一行の人力車の行列に村の青年が移転反対の声を上げ、石川素童禅師の車と間違えて、一台の人力車を襲撃し、転覆させ、崖から転落させ、川底に落とすという事件が発生した。間違えられたのは石川県七尾市東嶺寺岡田泰明住職であった。地元ではこのように總持寺移転に対する過激な反対運動が起こっていた。
とりわけ總持寺が存在した門前村は、総て總持寺に関係ある商人や職人たちが住んでおり、多くの人は總持寺から収入を得ていた。移転されれば、生活が成り立たないのでかなり強い抵抗があった。反対運動の主な動きを挙げると、同年8月21日には穴水において信徒大会が開かれ、「能本山(總持寺)非移転同盟会」を組織し、さらに反対運動の拡大を図り、11月13日には金沢市公会堂において石川県信徒大会を開き、本山移転反対を決議し、内務大臣・石川県知事に陳情書を提出した。一方、總持寺は12月5日、本山移転願書を石川県庁に提出した。
1907(同40)年1月29日、村上義雄石川県知事の斡旋により無事移転問題は解決した。地元が要望した条件は①門前に置く寺院は大本山總持寺別院とする事、②本山から12万3千円を支出し、これに能登地方から募集する2万7千円の寄付金を加えて、別院の建築費にあてる事、③本山は能登の檀信徒に対して本山の建築費を募集しない事、④別院と末派寺院を同列に扱わず、両本山以外の特殊な地位におく事、⑤別院の住職は本山(總持寺)貫首が兼務し、貫首退隠後は別院を隠棲の地とする事――など、これらの条件を本山側が認め、門前には従来のように七堂伽藍を建立する事になった。
10(同43)年には大祖堂・放光堂が落成し、12(大正元)年には客殿が落成し、その後山門・僧堂・接賓・庫院・紫雲台などが完備していった。
本山の鶴見移転への手続きが終わったのは11(明治44)年の7月2日のことであった。大火から14年目のことである。この年11月5日には移転式大法要が盛大に行われた。この時、鶴見に完成したのは放光堂・伝灯院・跳龍堂のみであった。境内は03(同36)年、成願寺が提供した約1万4800坪を含めて、約6万3300坪であった。現在は約15万坪である。
石川素童禅師の長年にわたる、別院の設置・鶴見移転の作業はかなりの心労が伴ったことであろう。しかし、大本山總持寺の現在の隆盛を見るにつけ、百年先を見越しての炯眼といえると思う。總持寺にとっては中興の祖ともいえる人物と評価されるであろう。20(大正9)年11月16日に遷化された。「勅特賜大円玄致禅師牧牛素童大和尚」と号した。
(参考文献 『總持寺誌』『新修門前町史』)