大本山總持寺石川素童禅師百回遠忌を迎えて(1/2ページ)
明治大名誉教授 圭室文雄氏
石川素童禅師が尽力された總持寺鶴見移転について記してみたいと思う。
本来石川県輪島市門前にあった總持寺は1898(明治31)年4月13日午後9時の出火で、境内にあった70余棟の大伽藍並びに建築物の大半を失った。主なものを挙げると大法堂・仏殿・紫雲台・待鳳館・蟇沿斎・普蔵軒・放光堂・祥雲閣・大庫裏・香積台・大僧堂・接賓本寮・鐘楼・勅門並びに左右80尺(24メートル)に及ぶ五筋練塀など、悉く焼失した。
この時の總持寺住職は独住第二世畔上楳仙貫首(1825~1901)で、監院は石川素童師であった。
1899(同32)年11月5日、曹洞宗宗務局は大本山永平寺森田悟由貫首と總持寺畔上楳仙貫首の連名で、全国の曹洞宗寺院と檀信徒に対して「告諭」を出している。その内容は「大本山總持寺諸殿堂再建につき、末派寺院及び檀家信徒は熱誠を傾けて、勧奨翼賛をもって、この前古稀有の大工事を迅速円満に落成せしめんことを望む」としている。一方曹洞宗宗務局も「一宗協力この大工事を達成せしめるよう」と布達している。
いよいよ總持寺再建大工事に取りかかる条件が出そろい、全国の曹洞宗寺院・檀信徒の勧化金徴収の手続きが終了した。この時、曹洞宗再建のため10の規則を定めている。主なものを記してみると、總持寺諸殿堂再建法・再建祠堂法・再建事務本部職制・再建祠堂金取扱規定・再建経費予算などである。作成の中心になったのは石川素童監院であった。しかし、この時期は本山移転までは考えていなかったようである。
ところが總持寺内部において人事異動があった。1901(同34)年3月、畔上楳仙禅師が退董、西有穆山禅師が貫首になり、新しい体制に代わった。
曹洞宗では02(同35)年4月18日、大本山永平寺承陽大師(道元禅師)六百五十回大遠忌が盛大におこなわれた。
さらに04(同37)年~05(同38)年には日露戦争が勃発している。国内外のかくの如き物入りの時期、總持寺再建寄付金を曹洞宗寺院・檀信徒から集めることは、きわめて困難であり、一時停滞せざるをえなかった。
總持寺では05(同38)年、西有穆山貫首が退隠し、神奈川県南足柄市最乗寺石川素童住職が總持寺独住第四世貫首に就任し、いよいよ總持寺の再興に本格的に尽力する事になった。先述の如く1898年の大火の時は監院をつとめており、その頃總持寺再建計画を立案していたからである。ところが、これまでの計画は輪島市門前に總持寺を再建する計画であった。
1899年11月、東京市深川区長慶寺武藤弥天住職や、1900(同33)年5月、長野県北部の曹洞宗寺院及び檀信徒から「本山再建はこれまでの輪島市門前ではなく、東京に移すべき」という請願書が次々に總持寺貫首に提出されてきた。この頃から總持寺の本山移転の機運が徐々にたかまってきた。
日露戦争の終結後、06(同39)年7月26日、東京市芝青松寺において總持寺移転についての諮詢会が開かれ、移転問題が議論された。当日は永平寺森田悟由貫首・總持寺石川素童貫首をはじめ、両本山の正副監院・宗議会議員などが集合し、検討を加えた。その結果、總持寺移転の件は賛成を得て、曹洞宗内の協力を取り付けた。