行基墓、竹林寺の結界と輿山墓地(2/2ページ)
元興寺文化財研究所副所長 狭川真一氏
ではなぜ『竹林寺略録』は往生院を行基の墓と記載したのであろうか。その前に往生院とその周囲に広がる輿山墓地を眺めておきたい。
現在、輿山墓地の中央に位置する往生院は一宇の堂を有するのみだが、その堂内へは今も納骨が行われているようである。この堂の背面には高さ1・8メートル余りの花崗岩製五輪塔が安置されるが、塔の表面に梵字や銘文を記載しないタイプである。この形式の五輪塔は西大寺の叡尊墓を祖型としたもので、律宗の活動によって各地の墓地の中心に据えられ、塔の地下や周辺に納骨が行われた。その造営時期は14世紀前期頃が最も多く、往生院の五輪塔もこの時期の所産である。当初はこの堂の中央に据えられ、多くの死者を迎え入れていたのであろう。
その堂前には細長い石柱の上に五輪塔を彫り出した、長足五輪塔と呼ばれる石塔がある。この塔の特徴は噛合式といって火輪上部が風輪下部に差し込まれたような形をしたもので、高野山へ向かう参道に建てられた町石の一部に同じ形態のものがある。おそらく町石を造営した石工またはその末裔が建立したものだろう。石柱部分には阿弥陀三尊の梵字が刻まれ、堂前にあってお詣りの人々を迎えたものと思われる。石塔の年代は14世紀前期頃であり、堂内の五輪塔と共通する。しかもこの時期は行基墓に伴う結界石を配置した時期に一致しており、往生院を含めたこの付近一帯を行基所縁の地として一斉に整備したことが窺える。
しかも往生院周辺はこれ以後庶民の墓所として拡大し、輿山墓地として現在まで継続して利用されている。墓所は昭和50(1975)年頃に大きく改変されてしまったが、墓地内には小型の石龕仏(箱仏)や舟形五輪塔など戦国時代から近世初頭に登場する石造物を多数見ることができる。しかも近世以降は周辺の数カ村の共同墓地(惣墓)となって現在に至っている。
これに対して行基墓のある竹林寺境内には、西大寺中興叡尊の弟子にあたる忍性の分骨塔が建立され、その周囲には忍性を慕う弟子筋の人々が追葬されている。現在もその脇にある墓地は一般には開放されておらず、往生院の様相とは大きく異なるものである。
おそらく中世段階で行基への信仰が高まる中、多くの道俗が行基墓へ集まったと思われるが、その人々の墓所あるいは納骨所はここには設けず、南側の往生院を行基所縁の地であるとし、そこで庶民の供養を賄うように設定したのではなかろうか。結界までして神聖な場を維持し続けるうえで庶民墓の隔離は重要な施策だったのであろう。そのためにも往生院の地が早くから神聖な場所であることを説く必要があったとみられ、墓所内に残る正元元(1259)年の石造宝篋印塔の銘には「南無□□導師弥勒仏」とあってそこが弥勒下生の場であることを説き、「釈迦入滅一千八百六十七年」と仏滅紀年を記載してすでに末法の世であることをいち早く示す必要があったのではなかろうか。
同じような図式は高野山奥之院に見られ、弘法大師廟をまさに弥勒下生の地と見立て、その周囲に納経、納骨が行われ、そこを中心に庶民の納骨所へと発展したことと結びつく。おそらく行基墓の顕彰と整備を契機として、行基に帰依する人々の墓の造営と運営をこの地で引き受けるよう設計されたものだったと考えたい。その背後には行基墓の発掘を指揮した律僧の力が大きく働いていることは言うまでもないだろう。