行基墓、竹林寺の結界と輿山墓地(1/2ページ)
元興寺文化財研究所副所長 狭川真一氏
文暦2(1235)年8月、律僧の寂滅らによって行基の廟(奈良県生駒市)が発掘され、八角形の石筒と行基の墓誌銘文を刻んだ銅筒が発見された。これ以前に行基廟の上に建てられていた石塔から舎利が出現し、近くの庵から出た煙が行基廟を覆うという奇瑞が相次いで起こる。さらにその庵に住まいした慶恩という僧に「我が廟を発掘せよ」という行基の託宣が下ったこともあり、僧侶俗人みんなが心を同じくして発掘に踏み切ったという(細川涼一『中世の律宗寺院と民衆』)。
嘉元3(1305)年成立の『竹林寺略録』(大日本仏教全書所収)には、行基の遺骨は往生院に納め、そこを竹林寺の奥之院としたと記録されている。この場所は現在の史跡指定地となっている竹林寺境内の行基墓より南へ約400メートルの位置にある。これについてこの記事を素直に理解する立場や、往生院を火葬場とみる説などがあり研究者間で決着を見ていない。
ではいずれが本物の行基墓であろうか。もちろん今再発掘すれば解決する可能性は高いが、それは現実的ではないので古代墳墓研究の視点で眺めてみよう。行基が活躍した奈良時代は、天皇や高位の官人、高僧のみが造墓を許されたが、平城京内や公道の近くに埋葬することは禁じられた(『喪葬令』)。そのため都周辺の丘陵部に墓が作られたのである。たとえば天皇や皇子らは平城京北東辺の丘陵部にまとまって営まれ、その他の官人や僧侶は盆地の東西北に横たわる丘陵部に場所を選定して埋葬されたようである。古事記編纂者の太安萬侶の墓が平城京の東山中の地にあることを知る人も多いだろう。この太安萬侶墓の立地を見ると、墓は丘陵の南向き斜面の中程に作られ、左右(東西)には墓のある主丘陵から舌状に南へ伸びるやや低めの丘陵があり、それに挟まれた谷部の南側は開けた土地となっている。まさに墓地を営む背後の丘陵を玄武、前面の開けた土地を朱雀、東西の丘陵をそれぞれ白虎と青龍に見立てた風水思想に適った土地を選んでいるのだ。
当時の墓地はこの周囲の丘陵部を含めた範囲で1人の墓域だったとみられ、その範囲内から他の蔵骨器などが見つかった例は無い。この視点で行基の墓を観察し直すと、現在史跡に指定されている地点の周辺は、竹林寺の造営に伴う改変はあるもののまさにこの条件に適った位置にある。仏教の高僧といえども、選地は風水思想にしたがっていたのは興味深い。これに対して往生院の地は丘陵の最上部に位置しており、また南側隣接地には大宝度の遣唐使だった美努岡万の墓地が確認されており、奈良時代の造墓論理には適合しない場所と考える。ここでは現在の史跡地周辺を本来の行基墓と考えておこう。
現在、竹林寺の境内には結界石と称する高さ1・2メートル余りの方柱状の石碑が4点残っている。このうち3点にはそれぞれ「大界西南角標」「大界東南角標」「大界東北角標」とあり、残る一つは板碑型で「大界外相」「勧進沙門入西」などの銘文が見える。これらの当初の配置を復元すると、方柱状の石碑3点は失われた1点と共に竹林寺のある丘陵の四方の隅部分に、板碑型の1点は南正面に存在したことが判明している。しかも四隅の石碑の位置は行基墓を中心にして対角の位置になるよう配置されていたことも明らかになっている。
この結界石は入西という僧が勧進して造営したものだが、この入西は嘉元2(1304)年に近くの無量寺で五輪塔を建立しているので、この時代に活躍した人物であることが分かる。さらに結界石は翌年に成立したとされる『竹林寺略録』に掲載されているので、概ね嘉元初年頃に行基墓の結界は設定されたと推定されている(『生駒市石造遺物調査報告書』)。もし最重要の行基墓本体が往生院にあったなら、結界は往生院になされるべきだったのではなかろうか。この事実はやはり、現在の指定地が行基墓本来の位置であることを示していよう。