「大坂拘様」での教如とその周辺(2/2ページ)
真宗大谷派正光寺住職・名古屋教区教化センター研究員 小島智氏
ちなみに、[A]と同じ十月晦日付で「武蔵/諸坊主衆中/同門徒中」に宛てられた、[A]とほぼ同文の教如書状が、東京都港区の善福寺(本願寺派)に所蔵されており、『本願寺教団史料 関東編』(本願寺派)に翻刻が掲載されている。さらに、岡崎市慈光寺(大谷派)にも、同日付で「三河国/諸坊主衆中/同門徒中」に宛てられた、ほぼ同文の教如書状(こちらは写)が所蔵され、『愛知県史 資料編』第11巻に翻刻の掲載がある。ただ双方とも添状は伝わっていないようである。また、善福寺蔵の書状については、小泉義博氏の『本願寺教如の研究』(法藏館)上巻第2章・下巻第7章でも全文引用されている。
ところで、「大坂拘様」は顕如と教如の「父子密計」である、という学説が古くからある(辻善之助『日本佛教史』第7巻、岩波書店)。それに対し大桑斉氏は、顕如・教如両人の書状を考察し、二人の意志疎通の欠けたことが結果的に「大坂拘様」となったのであり、その要因は本願寺家老・下間仲之の策謀にあるのではないかと推測されている(『教如―東本願寺への道』法藏館)。実は、ここに掲げる[A][B]2通はそこでの考察対象に入っていないが、その推測をより裏付けるものと言えるのである。
まず[A]の前半からは、教如が本願寺を受け継ぐ身であるとの自覚を持ちながらも、講和の協議では蚊帳の外に置かれ、顕如と意志の疎通がとられていなかった状況がうかがえる。さらに、8月の大坂退去後、紀州鷺森にいる顕如のもとを訪れようとするも果たされなかったことが述べられ、これ以降教如は、1582(天正10)年6月の本能寺の変後の父子和解まで、諸国巡回の身となるのである。
また後半では、この顕如・教如が和解に至らなかったことに関し、「謀人」により色々とあらぬことを言われ、損害を被っている様子が述べられている。前述のように大桑氏は、何者かの讒言によって教如は遠ざけられた可能性が高く、その何者かを下間仲之と推測されているのだが、[A]にある「謀人」というのも、下間仲之のことを指していると考えられよう。
この「謀人」については、[B]でも顕如と教如の仲が妨げられている要因とされ、顕如側からの申し下しがあっても、「謀人」の仕業ゆえ信用せぬよう求められている。下間頼龍にもその存在が強く意識されていたことが分かる。
しかし、[B]でより注目すべきは、その冒頭部分で教如を「当御門様」、顕如を「大御所様」と呼んでいることである。「大坂拘様」からの教如の背景に、顕如より勘気(破門)を受けながらも教如を支持する、僧侶・門徒や家臣の存在があったことは従来から指摘されているが(大桑斉前掲書)、その代表格が下間頼龍であった。頼龍にしてみれば、もはや当門主は教如であったのである。
言うまでもなく、教如の正式な本願寺継承は、1592(天正20・文禄元)年11月の顕如示寂に伴ってであるが、天正8年の段階で教如側近がこう述べているということは、「大坂拘様」時から教如を当門主と認識する本願寺家臣団の勢力が存在し、それが基盤となって、以後の「教如教団」形成が図られていったと見ることができるということであろう。
なお、大桑氏は前掲書において、下間頼龍の天正8年9月13日付「照蓮寺/同門徒中」宛て書状でも、教如が「当門様」と呼称されていることを指摘している。これは真宗大谷派高山別院照蓮寺に所蔵され、『続真宗大系』第16巻「天正八年信長と媾和及び退城に関する文書」に翻刻があるが、2018年度の大谷大博物館特別展「飛騨真宗の伝流―照蓮寺高山移転四三〇年」で出陳された。
また、同朋大仏教文化研究所13年度後期展示「本願寺教如と三河・尾張・美濃」の図録でも、教如の天正8年6月28日付「トキ明覚門徒衆中・多良郡惣中」宛て書状(大垣市明願寺蔵)に付随する、同年7月5日付下間頼龍添状(同寺蔵)において、教如が「当御門主様」と呼ばれていることを指摘している。頼龍のこのような認識は、本願寺教団史において極めて重要な意味を持つと思われる。
以上のように、水戸市善重寺蔵の教如書状写、下間頼龍添状写は非常に示唆に富む内容を持っており、その後の本願寺東西分派への変遷を考える上でも看過できないものといえる。他にも、同時期に同様の書状が諸国へ出されている可能性もあり、不明な点の多かった「教如教団」の形成過程が、より詳らかになっていくことが期待されよう。