近世三昧聖の活動と行基伝承(2/2ページ)
方丈堂出版編集長 上別府茂氏
その他、例えば、大阪市東住吉区の矢田部墓地の供養塔には「南無行基大菩薩」(正面)、「御年七十八而為大僧正此任始于墓、天平勝宝己丑正月皇帝受菩薩戒及皇太后賜大菩薩」(右側面)、「同二月二日八十二於菅原寺東南院入寂矣、時延享五年歳次戊辰二月二日奉修一千年御忌者也」(左側面)、「河州丹北郡矢田部邑、弥明寺三昧聖中」(裏面)(『中河内郡誌』)との刻銘がある。
その他、この類の石碑は奈良市の大安寺墓地、奈良県斑鳩町の極楽寺墓地、大和郡山市の長安寺墓地など各地に現存する。無銘の近世の五輪塔・宝篋印塔などをも行基供養塔と称している墓地もかなり多いことから、畿内各地の三昧聖による行基供養塔の建碑の多さが窺えよう。
また弘化4(1847)年3月2日から同8日まで畿内三昧聖は、東大寺で行われた行基一千百年忌にも同様に日限を以て登山していた(「行基一千百年忌法事廻文之写」)。もちろん畿内各地の三昧聖の建碑も行われ、奈良当麻寺北墓の自然石には「開山行基菩薩 天平二十一年二月二日入滅 弘化二年一千百回忌建之 雲分寺」と刻銘された。
では三昧聖をこのようにかりたてた行基伝承とは、具体的に何をさしていたのであろうか。その手掛かりとして多くの三昧聖関係史料のなかで、三昧聖由緒書といわれる『行基之巻』『志阿弥之巻』をはじめとし、『五畿内五三昧縁起』『行基菩薩草創記』『行基菩薩絵伝絵巻』その他があげられる。これらの史料は偽文書ではあるが、その行基伝承のモチーフは次のようなことであった。
①三昧聖の先祖は行基とともに畿内の墓地を開創し、火葬を行った志阿弥法師という渡来僧であった。②そして行基は志阿弥を子孫相続のために妻帯させ、その子孫が三昧聖となった。それゆえ妻帯した三昧聖は農業も行い、有髪の者もいた。③志阿弥やその徒弟は特殊な火葬術をもっていた。したがって行基開創墓地は必ず火葬をする設備があって、その寸法も穴輪4尺、深さ3尺2寸と決められていた。④聖職の権限は聖武天皇の「御綸旨」「御院宣」で定められ、葬送諸色の進退や墓地の除地や諸役免除等が認められていた。⑤また行基大仏造立勧進に志阿弥やその徒弟が参加していたので、以後後世の大仏再興勧進に助力していた――などと伝承していたという。
昨年は行基生誕1350年の記念イベントが各地で開催され、行基の活動および業績が見直されている。一般に知られている行基の活動は、奈良時代の国家仏教のもとでは鎮護国家の法会・祈祷などに専念させられた僧尼は民間では直接布教することを禁じられていたなかで、灌漑設備や交通施設の造営、架橋・造池などの社会事業、四十九院と呼ばれた寺院の建立などがある。近世の三昧聖の行基伝承を信じるならば、後世にもっとも大きい影響を与えたのは、庶民のために火葬を始めたことや墓をおこしたこととする功績(五来重説)である。史実としては厳しいが、無視することはできないのではなかろうか。