近世三昧聖の活動と行基伝承(1/2ページ)
方丈堂出版編集長 上別府茂氏
紀州高野山は古代末から納骨の霊場として知られ、近世には「日本総菩提所」の名で宗派を超えた人びとの納骨と塔婆供養が行われてきた。奥之院の入り口から大師御廟までの約2キロの墓道の両側には、樹齢数百年の老杉とともに歴史上著名な諸大名などの20万基を超える巨大な五輪塔や供養塔が林立し、木漏れ日が霊場の雰囲気を醸し出す。この鬱蒼とした墓原の一角に、我が国の庶民仏教史上もっとも重要な人物のひとりである行基の供養塔が建立されていることを知っている人はそんなに多くないであろう。その碑銘によれば、江戸時代中期、延享5(1748)年に「三昧聖」という宗教者が行基の一千年忌供養のために石塔を建立していた。
ではこの三昧聖とはどういう宗教者であろうか。三昧聖とは火葬・土葬による遺骸の処理や墓地(俗称はサンマイ)の管理に従事した半僧半俗の宗教者(=聖)のことをいう。一般に「オンボウ」(煙坊・煙亡・隠坊・御坊など)、「墓守り」などともいわれた。文献上では、室町時代前期の『浄土三国仏祖伝集』(1416年)に「薩生法眼三昧義。号三昧衆。今世三昧聖リ是也。又ハ名御坊聖」と見えるのが早い。その職掌は安土桃山時代、1576(天正4)年7月26日付の宣教師ルイス=フロイスの書簡によれば、「日本に於いては異教徒の間に貧窮なる兵士および保護者なき人死する時は、フジリスと称する人たちのもとに遺骸運び焼かしむる習慣」のあったことを本国に報告している(『耶蘇会士日本通信』下)。全国的に三昧聖に類する職掌の俗聖は、空也僧・茶筅・鉢叩き・鉢屋・鉦打・念仏者・谷の者・念仏者(沖縄)・陣僧などがあげられる。遺骸を扱ったことからいずれも賎視された。
近世の近畿周辺(山城・大和・河内・摂津・和泉・近江・丹波など)の由緒ある墓地に三昧聖建立の行基供養塔などが多く見られることや、三昧聖の伝承に多く行基を祖として仰いでいることに注目し、なぜ彼らが行基との関係を保持していたかを明らかにしてみたい。
「大坂千日前法善寺の墓所に行基開創の碑あり」(近世の『葦乃若葉』)とあるように、行基開創を伝える墓地が多いことは歩いて見ればわかる。近世の三昧聖がその開創建碑を行い、例えば文久元(1861)年、大坂梅田墓所の基流という三昧聖は「聖武天皇勅許行基三昧耶場」と刻銘した石碑を墓所入り口に建てていた(『道頓堀非人関係文書』下)。また三昧聖所蔵の行基坐像(木造)や行基画像も多く、彼らは行基講も組んでいた。
三昧聖の行基伝承をもっとも端的に示す例は行基年忌供養の法会であり、その記念としての建碑である。年忌供養会は畿内各地の三昧聖が個別に行った分と、東大寺龍松院の要請により東大寺で実施した分とがある。延享4(1747)年3月から4月8日まで東大寺では「行基遺身舎利供養法事」として一千年忌が執行された。それゆえ、東大寺大勧進職であった龍松院は「和泉国新古惣三昧聖中」宛てに、報恩稔香拝礼として東大寺へ登山するように書簡を送っていた(「行基菩薩一千年忌法事廻牒之写」)。この書簡によれば五畿内各国の三昧聖に、日割りを以て参詣するようにと伝えているので、同趣旨の書簡は和泉国の三昧聖ばかりでなく畿内他国の三昧聖にも送付していた。
延享4年の東大寺行基一千年忌供養会に登山した各国の三昧聖は帰省後、自国の墓地でも行基供養会を行ったうえ、記念のため建碑していた。大坂の千日墓所三昧聖は延享4年4月24日に「開闢之行基菩薩千年忌為報恩」に常念仏および説法法事を実施し、行基一千年忌法事を営んだ(『道頓堀非人関係文書』下)。翌年の延享5年に各国三昧聖は各々の墓地で記念の建碑を行ったことが知られ、前述した高野山奥之院墓地に建碑された供養塔もそれにあたる。