「佛仙」原坦山を仰ぐ(1/2ページ)
曹洞宗医王寺住職 村上徳栄氏
本年は原坦山(文政2=1819~明治25=1892)の生誕200年の年になりました。幕末明治期を代表する禅匠として、文明開化期の東京帝国大印度哲学初代講師や曹洞宗大学林総監として、さらには佛教結社佛仙社の創立者として、当時の仏教界を力強く牽引した類まれな仏教者でした。
昨年は戊辰戦争・維新戦争150年という節目。何かと往時を追懐する記事が散見されました。坦山については『坦山和尚全集』があり、後学にとり大変有意義な書物であります。
最晩年は曹洞宗管長や帝国学士院会員などの栄誉に恵まれましたから世間の名声はずいぶん高かったことでしょう。その一生を概観しますと、起伏に富んだ劇的な生き方をされています。当初、儒学を磐城平藩校施政堂(福島県)の大儒神林復所(1795~1880)に学びます。復所は向学心の厚い根っからの学者で、『言志四録』で有名な江戸の佐藤一斎に学んだのです。その著書は300部以上にもなります。彼は磐城平藩を代表する学者でした。
坦山は平藩士新井勇輔の長男として出生。致仕した父に従い江戸へ上京したのは15歳の時。湯島聖堂で官学を習得、頼山陽の三男坊で幕末の志士・頼三樹三郎と交友を結び一時は慷慨の士を目指したのでした。頼三樹は父山陽著『日本外史』の出版に尽くし、当時の大ベストセラーとなり、尊王攘夷派からは聖典視されました。惜しくも35歳で安政の大獄で刑死。さて、坦山は多感な若者でしたから、所帯をもつことになっていた彼女が別の情夫と懇ろになっている様子を見て危うく刃傷沙汰になりかけたことも。やがて猛烈な勉学の成果もあがり、駒込吉祥寺栴檀林の修行僧に儒学を教授するまでになりました。
そこで大中京璨という禅僧と儒仏論争をする羽目になります。京璨は関浪磨甎の弟子でしたから分が悪かったと思われます。この論争に負けた方が弟子になる約束でしたので、あっさり兜を脱ぎ、曹洞宗の出家僧となります。以来、諸方の名だたる老宿宇治興聖寺回天慧杲、浪花覚巌寂明、小田原月庵全龍の門を叩き、最終的に本高風外(1779~1847)の印可を受けます。当時、風外の会下には後に間出の大禅師となる諸嶽奕堂(1805~1879)、『良寛道人遺稿』を出版した蔵雲、学究肌の白鳥鼎三、無関など一級の禅僧たちがひしめいていました。坦山はその中でもずっと若輩でした。
嘉永6(1853)年、ペリーが黒船で来航し、我が国を驚天動地させたのと同じ年に、京都白河雲居山心性寺の首先住職となります。時に35歳でした。結制もしました。その時の助化師は道友の環渓和尚で、のちに永平寺を董すことになります。
京都では蘭方医の小森宗二と出会います。そして「仏教で盛んに主張する心は一体、体のどの部分にあるのかその証拠をみせよ」と論争となりました。とうとう小森の主張する解剖学的な根拠を示すことができず、改めて医学的に実験した上で心の所在を確定できなければ、自分の信じる仏教が廃れてしまう。そんな危機感を懐いたのです。坦山のいう心性実験のきっかけはここに始まります。その論争をしたところが海老屋という懇意にしていた法衣商でした。その店の息子が富岡勇輔(鉄斎)でした。当時まだ20歳くらいの若造で大田垣蓮月尼の身辺の手伝いを何くれとなくしていて、画家として一本立ちする以前のことです。
宿かさぬ人のつらさをなさけにておぼろ月夜の花のしたふし(蓮月尼)
尼は高潔で無欲な風流歌人として知られており、そんなこんなで心性寺の坦山の世話になり寺に同居したことがあります。陽明学者春日潜庵や梅田雲浜などの勤王家との交流もありましたので、尼は勤皇家と目された存在でした。富岡家の先祖には石田梅岩の石門心学に傾倒した以直もおり、単なる一法衣商ではありませんでした。鉄斎が「万巻の書を読み万里の道をいく」という大抱負を懐きながら生涯読書と南画に精進したのも所以無しとしません。
さて小森との論争で西洋医学を学びなおすことを決心、仏教学にも目を晒し、比叡山の羅渓慈本について天台教学を深めました。その時には蓮月尼と勇輔も一緒に学んだのです。一方、時の関白近衛二条公と衝突して狂人扱いを受け、精神病院に入院させられるという悲劇もありました。その後、東山のあたりで浪人生活を続けながらも坐禅三昧に拍車をかけ、江戸に戻ります。