「佛仙」原坦山を仰ぐ(2/2ページ)
曹洞宗医王寺住職 村上徳栄氏
維新当時には大教院編輯課に在勤中でしたが、出版法の罪科を問われ、還俗をさせられてしまいます。その頃でした。坦山の徳望を慕う啓蒙思想家・加藤弘之から帝国大学仏教講師の招請を受諾、仏教学者としての道を歩みます。儒者から出発し禅僧となり、さらに還俗の憂き身にあいながらも己の信ずる実験的医学禅に邁進しつつ教鞭をとり続けました。
それらの成果は『時得抄』の出版となり、各界の有識者へその批評を求めました。大脳生理学や解剖学の教養を駆使した論文は、浄土宗の大徳福田行誡や同門の西有穆山からの批判も受けました。
坦山の教養は広く、ギリシャ哲学や欧州の哲学者ニュートン、デカルトにまで及び、富永仲基「大乗非仏説」にも注目して共感しています。福沢諭吉と面談し、彼の知人の在日外国人にまでも批評を仰いでおります。著作に対する坦山の自信のほどがこちらにも伝わってきます。単身で西洋医学と禅の対決を進め、ついに佛教結社である佛仙社を創設されました。自筆稿本『大乗起信論両訳勝義講義』(昭和63年、功運寺刊)の序文に中村元博士が次のように述べられています。
アーラヤ識といっても、現代の学者はただ文句を解釈するだけではなかろうか?……『最尊勝の身と云ふのは脳にある第八識(アーラヤ識)の事です』と言い切っている。……原坦山の体当たりの解釈は、やはり考えさせるものがあるであろう』
畢生の成果は法嗣の原田玄龍に受け継がれ、その印可を受けた心霊哲学会主宰の木原鬼仏へと伝授された。鬼仏著『身心解脱 耳根円通法秘録』(大正6年)の題字は前永平寺貫首森田悟由禅師であり、禅師は坦山の曹洞宗大学林葬の際、大導師を務められたという深い因縁があります。
坦山禅ともいうべき医学禅は、出家以前に学んだ多岐安叔や湊長安による医学の影響を見逃すことはできません。
多岐家は累代将軍家の奥医師を輩出した家柄ですし、湊長安はあのシーボルトからドクトルと敬愛された蘭医でした。『惑病同原の実験』によれば、坦山は瀕死するほどの重体に3度あい、定力による奇病も発症するなど、勦絶このうえない辛酸をなめつくしておられます。
ところで交際の広さにも目を見張ります。明治を代表する居士といえば、老師の門下生で明治の維摩と尊敬を受けた大内青巒居士、盟友で陸軍軍人・政治家子爵の鳥尾得庵居士、さらには山岡鉄舟居士ですが、いずれも胸襟を開いた親密な交際がありました。得庵の「無量寿経論」にはみずから評注をしました。彼は大日本茶道学会の流祖でもあり伝統文化にも深い教養人。仏教講師時代の教え子だった哲学者井上哲次郎をはじめ、各界一流の要人たちに仏教思想の魅力を堂々と広めた功績は多大でした。坦山の時代に先駆けた「心性実験」の講義は当時の若きエリートたちに大きな知的刺激を与えたことでしょう。
最後に晩年の境涯を述べた七絶一首を紹介します。
野人本自不求名 須向山中過一生
莫嫌憔悴無知己 別有煙霞似弟兄
最晩年には保善寺(東京・世田谷)で老の身を養っておりました。いよいよという最中の30分前にみずから筆を把って死亡通知書をしたため、宗務当局や道友たちに知らせたのでした。
『拙者儀即刻臨終仕候間此段御通知及候也』
坦山老師はこうして74年もの波瀾万丈の生涯を安らかに閉じられました。坦山老師生誕200年の節目を迎え、一代の傑僧の面目を偲ぶとともに、その顕彰がなされることを期待するものです。