「兼修禅」から「純粋禅」を再考する ― 中世禅の再考≪10≫(2/2ページ)
国文学研究資料館准教授 ダヴァン・ディディエ氏
鎌倉末期になると、禅宗内の中心となって、政治的な強い影響力を持っていた夢窓疎石も、禅の優位を前提にしながらその他の教えを認めていた。その詳細は分かりやすく『夢中問答集』に説かれており、そこには逸材たる夢窓の独特な見解と共に、鎌倉禅が共有していた「教」と調和しようとする一種のコンセンサスも表されている。
そのコンセンサスを破って禅に新しい方向を取らせたのは、大徳寺開祖の宗峰妙超(大燈国師)であったと考えられる。大燈の夢窓への批判は、たとえば『祥雲夜話』というテキストによく表れる。そこで、釈尊が経典に書かれてある事を説いたのはただ「止啼の説」――つまり泣き声を止ませるための方便――だけであって、それは禅の教えにあらずと主張する。
大燈曰く、自分も必要に応じてその教を説く時があるが、「只是れ迂曲の方便なるのみにして、吾が宗の直指に非ざる也」と断ずる(注3)。つまり、鎌倉時代に「教門」と「禅門」をどう共存するかは禅宗内の重大な課題だったが、大燈、そして後に大燈派は、禅宗には禅門しか認めないという態勢を取った訳である。
その背景には、大燈の時代に莫大な影響を持っていた夢窓疎石、また後に五山の主流になる夢窓派を意識していた事があったと考えられるが、帰結としては「禅門」――具体的には公案に基づいた修行――に再び集中する事になった。
それを裏付ける事として、安藤嘉則氏に指摘されたように、現代の臨済宗では公案参究の重要な公案集は『宗門葛藤集』だが、その作成過程を遡れば大燈が編纂した『大燈百二十則』に至る(注4)事が挙げられる。無論、単純に大燈派は専ら看話禅しかしなかったと言える訳ではないし、文学や教学など完全に縁を切ったとも言えないだろう。だが、様々な理由で近世に力を増した大燈派が、日本禅の新しいあり方を切り開いたと思われる。
室町以降の禅は、しばしば評判の悪い「密参禅」の時期に入る。その時の公案参究の様子は「密参録」と呼ばれるテキストに記されるようになった。それは回答集のような物と言われ、禅僧達がそれを使っていかさまに形だけの公案突破をしていたとみられる。
そうした評価をしていた鈴木大拙は、密参禅を「変態禅」と厳しく批判していた。しかし、飯塚大典氏や安藤嘉則氏の研究で分かるように、この見方は些か過小評価である。よく見てみれば、当時(室町末期から近世中期にかけて)の公案に対する禅宗の態度が表れていて、いまだに理解され切れていない中近世の禅(臨済と曹洞両宗)のありようが描かれている。
また、密参禅になったこと自体が、どれほど看話禅が重要になっていたかも物語っている。そこに様々な特徴があるが、明確なのは、中国から伝播された純粋禅に戻ったというのではなく、むしろ日本に成立された新しい方向を歩んだということなのである。
近世には大燈派に属する妙心寺が主流になり、そこから白隠――そして所謂白隠禅(その区別は重要)――が出現するようになり、概ね現代の臨済宗の禅に至っている。つまり、「純粋禅」の歴史観が近現代に出来た時には、その大前提には白隠禅があったといえる。では、「純粋禅」という言い方で何が指されているのか。それは、中世末期から作り上げられて、やがて日本の主流となった禅が描いた理想の姿であろう。
(注1)和田有希子、「鎌倉中期の臨済禅:円爾と蘭渓のあいだ」、『宗教研究』77(3)、629~653ページ、2003年。
(注2)岸田(和田)有希子、日本中世における臨済禅の思想的展開、東北大博士課程論文、未刊行。
(注3)オズヴァルド・メルクーリ、「夢窓疎石と宗峰妙超の方便思想の比較―『西山夜話』と『祥雲夜話』を中心に」、『禅文化研究所紀要』31、287~313ページ、2011年。
(注4)安藤嘉則、「『大燈百二十則』から『宗門葛藤集』へ」、『駒澤女子大学研究紀要』9、1~24ページ。