解放への祈り(1/2ページ)
真宗大谷派教師 兪渶子氏
無宗教であることが誇りのように生きてきた私に、「宗教とは心の問題ではなく、生き方の問題です」と届いた言葉がある。言葉は偶然のように届いたけれど、それは国を求めて生きてきた日々の中に既に用意されたものだった。
目の前に一枚の写真がある。森に光が溢れている。光を背にして樹の幹に柔らかに手を掛けてじっと私を見ている少女が写っている。少女の名は金紘美、16歳。半世紀前の白黒の写真だ。
通っていた学校は、ルーツが朝鮮半島の子たちのために在日1世たちが建てたウリハッキョ(私たちの学校)。今も神戸市垂水区の高台に立っている。母が仕事を休んで来てくれた入学式の帰り道、野に咲くさつきの花のひと枝を折り、私に持たせてくれた。民族学校に通わせることができた喜びに満ちた笑顔を忘れられない。
民族学校は植民地時代を生き抜いた1世たちの矜持だった。
しかし、私たちは思春期の甘い絶望より深い民族の苦悩の中にあった。校舎の片隅に隠れ所を見つけては、友と二人して語り合った。「どんな事があってもこの空がある限り絶望しないで居ようね」と『アンネの日記』に同化してアンネの言葉を自分たちに言って聞かせた。友は朝鮮民主主義人民共和国という名の国に旅立ち、そして死んだ。私は根なし草のように漂い、なお国を求めていた。未来のために、ただそのために。3世の時代、私の子たちの時代には「自由と平等」が国に開かれますようにと。
しかし、先日「朝鮮高校生に無償化適用を! 民族教育を応援しよう」と呼び掛ける高校生たちに出会った。かつて私の通学路であった神戸市の三ノ宮駅周辺で署名運動をする高校生たち。深々とお辞儀して「ありがとうございます」と日本語で言う。署名用紙に名を書きながら、私たちの時代に解決しておかなければならない課題だった、と申し訳ない思いがした。街頭に立って訴えることなど考えられない時代であったにせよ。
目の前の高校生たちは4世の時代の若者だ。彼らの時代にまで続く差別とそれを訴えなければならない高校生たちに心が痛んだ。三ノ宮の雑踏に紛れて歩き出したら涙がこぼれた。しかし、振り返り考えたら高校生たちの声は、共生を願う希望の声だと思えた。
彼らの訴えは多くの日本人の良心に届き、大阪地裁は「差別は違法」の勝訴判決を出した。後に最高裁で敗訴したにせよ、声を上げ共感を生んだ行為こそが希望だ。「一つの国に多様な文化の共存はその国の文化の豊かさでもある」。哲学者・鶴見俊輔の言葉の具現の一歩だと思う。国籍を問わず誰であれ教育を受ける権利と選択の自由がある、その一歩だ。
自分の思いだけで子たちに日本の学校を選択した私は「僕は日本語人」と言ってくれた子の言葉に救われた。なぜなら、日本語が母語の朝鮮半島をルーツにする「言葉が国籍」の存在の誕生だと思えたから。
国家の過ちに翻弄されることのない存在でありたいと思う。大谷大学の鄭早苗教授の誘いで実現した韓国への旅で一層思った。
民族学校で学んだハングルを手当たり次第に声を出して読む私を見て、「字を習い始めた子どもみたい」と先生が笑う。私も笑う。知る人のいない、両親の祖国は私には他国だった。
鄭先生が私に言った。「あなたは宗教に逃げたのですね」と。「いえ、宗教から始まったのです」とまるで宣言するような、内なる言葉が自ずと出た。
大谷大学で2年間の修学の後、教師補任を受けた年の2月、凍て付くソウルの寒気の中での記憶。20年の歳月が過ぎても忘れない。
先生は日本の国籍を持つ母と韓国国籍の父の国籍のどちらかを選択できる立場にあったが敢えて韓国国籍を選んだ。私は「なぜですか?」と聞いた。先生は一言「義侠心よ」と答えて「日本で生きるなら日本の国籍で生きることの方が楽かもしれないけれど、少数の側を選ぶ」と言葉を続けた。