「茶祖、禅始祖」としての栄西 ― 中世禅の再考≪9≫(2/2ページ)
神戸学院大准教授 米田真理子氏
栄西は比叡山で学んだ後、入宋の志を抱きつつ、伯耆国大山で基好に師事し、やがて仁安3(1168)年、28歳の時に渡海を果たす。出発前の博多で、通事から宋朝での禅宗の広がりを聞き、入宋してすぐ、禅院で出迎えた僧に、最澄が伝えた禅は「今遺欠す。予、廃せるを興さんと懐ふが故にここに到る」(『興禅護国論』)と述べたと記している。
帰国後、次の渡航までの間に、『興禅護国論』には、最澄の「仏法相承譜」、円珍の「教相同異」、安然の「教時諍論」によって叡山での禅の伝灯を知ったと記し、『入唐縁起』では、「他事無く真言の聖教を学す」と記している。『改偏教主決』での、原山の僧との密教教主をめぐる論争が繰り広げられたのも、この時期のことである。『重修教主決』には、文治3(1187)年正月の日付が確認でき、「予、今春纜を解くに当たれり」とあるように、この年の渡航の直前まで、執筆活動を続けていた。
2度目の入宋は、同年4月、47歳の時。印度を目指して出帆し、大陸に着いたものの、国交断絶により、建久2(1191)年までの足かけ5年、中国に滞留した。その間に虚庵懐敞から禅を受けたのである。その後、建久元(1190)年に、天台山で『秘宗隠語集』を執筆している。これは入宋前の治承5(1181)年に、弟子に授けた書を再編したものである。
帰国後は、『興禅護国論』を執筆したとされる建久9(1198)年に、師の基好から密宗最極の秘法を受け、元久元(1204)年には、博多の聖福寺で弟子の厳琳に「不動許可」の説を授けてもいる。以降、最晩年の『喫茶養生記』に至るまで、密教僧としての活動は続き、並行して禅の修学も続けたものと推測される。
このように見てくると、栄西にとって、禅は、密教と共に叡山の受け継ぐべき伝灯の一つであり、二者択一を迫るようなものではなかったことがわかる。栄西は、叡山での禅の欠如を知り、その再興を自らの課題とした。中国で禅を受け、それまで培った知識にどう位置づけるかがさらなる課題となった。
栄西の禅の受容には偶発的な面があったが、次世代の弟子たちは、自らの意志で中国の禅林で学び、密教と禅の比較も具体化していった。このように中世の天台僧が禅を学ぶ営為において、栄西は、その道を拓いた先人とみなすことはできるであろう。
そして時代が下るにつれ、栄西の禅の側面が重視されるようになる。その萌芽は、『沙石集』(1283年成立)に認められる。著者である無住は、栄西の法流は戒律・天台・真言・禅門・念仏を修するとしつつも、禅の事跡に焦点を絞り、『興禅護国論』から「我滅後五十年に、禅門興すべし」を引用して、蘭渓道隆による宋朝禅の弘まりをもってその実現とみなした。さらに、『元亨釈書』(1322年成立)は、「今の学者、西を推して始祖と為す」と記しており、ここに至って、栄西の禅の始祖としての姿は顕現する。
栄西は、日本に初めて禅を伝えた人物ではない。また、日本に茶をもたらしたという意味での茶祖でもない。しかし、日本の禅と茶の歴史に多大な貢献を果たしたことに違いはない。『喫茶養生記』は、本邦初の茶書であり、栄西が示した「喫茶法」は、今の我々の飲み方にもつながる。『喫茶養生記』は、独創的なアイデアに満ちた、ユニークな書であり、今後、より自由な視点から読み解くことで、日本の茶の新たな一面も見えてくるだろう。
そして、中世禅籍叢刊全12巻が刊行されて、栄西の思想は、多角的なアプローチが可能となった。例えば、栄西に密教の宗趣を聞いた虚庵懐敞は、我が禅宗と同じだと述べたというが、栄西の密教の書に、鎌倉後期以降の禅に通ずる要素は見いだせるだろうか。また例えば、聖一派の書とのつながりはあるのか。院政期から鎌倉時代へと移行する時代において、栄西が果たした役割は、まだ解明されていない点が多い。新しい地図が描けるかは、読み手の柔軟なものの見方と模索力にゆだねられている。