「茶祖、禅始祖」としての栄西 ― 中世禅の再考≪9≫(1/2ページ)
神戸学院大准教授 米田真理子氏
お茶を飲むというと、どんな飲み方を思い浮かべるだろう。茶葉に熱い湯を注ぐ。湯の量と葉の量は好み次第で。これは、今から800年ほど前に、栄西(1141~1215)が『喫茶養生記』に記した「喫茶法」である。原文には、「白湯(只の沸水を云ふなり)極めて熱きをもて之を点服す。銭の大きさの匙に二三匙、多少は意に随ふ。但し湯は少きが好し、其れ又意に随ふと云々。殊に濃きを以て美となす」(初治本・原漢文)とある。
沸かした熱い湯を用いる。銭の大きさの匙とは、ティースプーンぐらいであろうか。それに2、3匙。「方寸匙」(再治本)と記す本もあり、これなら3センチ四方の匙。多い少ないはお好きなように。茶葉は、桑葉の服用法に「末にすること茶法の如し」とあるから、細かく砕いたものであろう。湯は少ないほうがよいが、それもお好みで。とりわけ濃いめが美味。これが栄西が示した喫茶法であり、末尾に栄西の嗜好もうかがえる。
栄西といえば、茶祖として知られ、今なお讃仰されている。では、茶祖とはどういう人を呼ぶのか。素直に解すれば、日本に最初に茶をもたらした人物である。しかし、栄西より前、平安時代から、日本で茶は飲まれていた。
最澄や空海がもたらしたとする説もあるが、正史での茶の初見は、『日本後紀』の弘仁6(815)年4月に大僧都永忠が嵯峨天皇に茶を献上したとする記事であり、同年6月には嵯峨天皇が畿内・近江・丹波・播磨等に茶を植えさせたことも記している。つまり、平安時代にすでに茶は飲まれ、茶樹の栽培も行われていたのである。そこで出てきたのが、日本の茶は一旦廃れ、鎌倉時代になって再び、栄西が中国から持ち帰ったとする説である。
こうした議論は、江戸時代以来、現代に至るまで何度も繰り返されてきた。あるいは、栄西が抹茶法を将来したとする説や、禅宗寺院での茶礼の布石とみなす説もある。それらに共通するのは、栄西に始発を求める視点であり、いずれも茶祖説の代替案といってよい。
結論を先に言えば、文献に最初に見られる茶の将来者は、明恵である。後に、その役割が栄西へと転じた。入宋経験のない明恵に代わって、2度入宋した栄西が呼び出されたのである。このことを前提にすると、栄西が、茶の何をもたらしたかを議論することでは、問題の解決にならないことは理解しやすくなる。
ただし、ここには栄西の禅の始祖としてのイメージも重なり、問題を複雑にしている。『喫茶養生記』は、密教の教説に基づき記されたもので、禅に関わる事柄は出てこないが、本書と禅の関わりは長らく論点の一つとされてきた。栄西が、入宋して禅を受け、帰国後に『興禅護国論』を執筆したことから、禅僧に転じたかのように捉えられ、日本に初めて禅を伝えた人物と認識されるようになったことが、栄西と茶の関わりを考える上にも影を落としてきたのである。
栄西の実像を知るには、その著作が第一の史料となる。『中世禅籍叢刊』の第1巻として刊行された『栄西集』は、『改偏教主決(教時義勘文)』『重修教主決』『結縁一遍集』『胎口決』『釈迦八相』『法華経入真言門決』を収録する。その中で、『改偏教主決』と『重修教主決』は、大宰府原山の僧・尊賀との間に起こった密教の教主をめぐる論争を書き留めた書である。
この論争自体初めて知られる事跡であるが、栄西が自らの立場を語る箇所等には、栄西の動向を探る手がかりが散見される。それは、『興禅護国論』が、叡山からの禅排斥の訴えに対して編まれた書であり、栄西が自らの体験を記していることと軌を一にする。では、栄西の著述をもとに、その思想形成の軌跡をたどってみることにしよう。