円爾系の印信から見る禅と密 ― 中世禅の再考≪8≫(1/2ページ)
東京大史料編纂所准教授 菊地大樹氏
弘安3(1280)年10月、ついに自己の死を覚悟した円爾(東福寺開山聖一国師)は、弟子に対して半月後に大涅槃に入ることを宣言し、ほぼその通りに17日、遺偈を認めると筆を投げて遷化した。この間の事跡の中で特に注目したいのが、8日から15日にかけ、円爾が3回にわたって法嗣白雲慧曉らに、天台密教の奥義を伝授したことである。
よく知られているように、円爾は最初天台僧として、駿河国久能山で研鑽を積んだ。ついで上野長楽寺栄朝のもとで参禅に励み、ついに入宋して無準師範に嗣法する。帰国すると、やがて九条道家の帰依を受けて京都に東福寺を開き、禅とともに天台教学の道場としている。
ただし従来は、参禅帰国後の彼にとって禅の優位は明らかであり、密教を含む天台教学は、あくまで禅と兼修する程度の位置づけを与えられたにすぎないと理解されてきた。このような天台教学との「雑修」のありかたは、のちに蘭渓道隆らによって確立された「純粋禅」の前段階として、一段低く位置づけられてきたのである。
ところが近年、純粋禅なるものが果たして歴史的にあったのか、といった根本的な見直しが進み、鎌倉時代における禅の地平は大きく様変わりしつつある。このような視点から、円爾が死の床において慧曉らに密教伝授を行ったことをとらえ返してみると、もはやその宗教的な意味が副次的なレベルにとどまるとはとても思えない。
さいわいなことに、この時に慧曉が円爾から授与された印信約50通が、現在も東福寺栗棘庵に残されている。印信とは密教において、伝授すべき印や真言を記すとともに、師資相承の正統性を証明する文書でもある。東福寺では、円爾の没後しばらくすると密教を含む天台教学の伝統は絶えたと思われるが、印信群は祖師の墨蹟の一種として珍重され、現在に及んだものであろう。禅宗寺院に密教の印信が伝わること自体、常識的には奇異であり、禅学研究者からも内容的には注目されることはなかった。
しかし、禅密関係の見直しの流れにこの印信群を位置づけることで、円爾の教学体系がさらに明らかになろう。ひいてはその系譜に連なりながらも、それぞれに性格の異なる印信群を伝える、大須観音真福寺をはじめとする多くの寺院において、鎌倉・南北朝期にどのようなダイナミックな禅密思想が展開していたかを模索することが可能になる。
まず「栗棘庵印信群」を整理してみると、円爾が台密の主流をなす谷流の相承に連なることが分かる。平安時代中期の延暦寺僧で、山林修行者でもあった皇慶を祖とするこの流派の伝授は、胎蔵界と金剛界の灌頂儀礼を個別に行う両壇灌頂を実施した上で、さらに両界を一体化させた合行灌頂を行うことに特徴がある。円爾は直接にはこの灌頂を、入宋前に上野国長楽寺の栄朝から受けていた。長楽寺もまた、関東における禅密の道場として大いに栄えたが、円爾は栄朝を通じて、さらにその師である栄西の法流を受け継いだのである。したがって、円爾は栄西に始まる台密葉上流に連なるのであると従来理解されてきた。
そこで伝授の内容を詳しく見てゆくと、「栗棘庵印信群」は主に谷流のうち、蓮華流および穴太流から構成されている。それらのうち、円爾は特に後者を意識していた。さらに彼はこれとは別に、のちに阿忍や見西といった密教僧からも「秘密灌頂」あるいは「瑜祇灌頂」といわれる独特の灌頂、つまり栄西を経由しない別の穴太流を承けている。
これは、円爾が栄西の法流に満足せず、なお究極の台密伝授を模索していたことを暗示してはいまいか。特に見西は、円爾の台密体系に決定的な影響を与えていた。『渓嵐拾葉集』は、見西を栄西弟子であるとするが、両者の師弟関係については疑問もある。むしろそこに続けて述べられているように、見西が禅密関係を論じながら、密教の優位を主張していることこそ、注目に値しよう。
それでは、円爾の台密法流や禅密教学は、その後どのように流布し、展開していったのだろうか。複数の円爾の法嗣の中で特に異彩を放つ人物が、癡兀大慧である。大慧は最初密教僧で円爾に法論を挑むが、その学識に感じて改衣嗣法した。大慧の教学、特に密教思想については従来ほとんど不明であったが、大須文庫の中には『灌頂秘口決』他、大慧の密教説を寂雲ら弟子が筆記した複数の典籍が残されていることが分かってきた。それらの一端が中世禅籍叢刊に紹介されたことで、彼の密教の体系が明らかになることが期待される。