円爾系の印信から見る禅と密 ― 中世禅の再考≪8≫(2/2ページ)
東京大史料編纂所准教授 菊地大樹氏
寂雲の弟子には、真福寺開山の能信らがおり、現在伝わる写本も彼らの手になる。これらの典籍の内容および特徴は、いっしょに伝えられた「真福寺印信群」と対照することで一層理解しやすくなる。「真福寺印信群」は三流からなるが、このうち鎌倉時代後期以降、大慧―寂雲―祐禅―能信を基本として、師弟間で次々に相承された印信群を、特に「安養寺流印信」と呼びならわしている。安養寺とは伊勢国上野御園(三重県明和町)にあり、同国泊浦(同県鳥羽市)大福寺(廃寺)とともに大慧を開山とする。先述の大慧述聖教の奥書には、しばしばこれらの寺院塔頭所蔵本を書写した旨が見えるので、この法流を「安養寺流」と呼びならわすようになったものであろう。しかし、「安養寺流」なることばは同時代史料には見られず、江戸時代にようやく寺内外に定着した。
現在臨済宗である安養寺にもまた、印信群が現存する。この「安養寺印信群」は、主に大慧から空然を経て寂誉に与えられたものであるが、「栗棘庵印信群」の系譜を引き、これと同じく台密の体系を持つ。ただし、「安養寺印信群」には見西伝授に関わる部分が伝来していない。
これに対し、特に注意しなければならないのは、真福寺で「安養寺流印信」と呼ばれているものが、じつは東密三宝院流の体系を基本とすることである。この法流は三重相伝を特徴とし、初重では金剛界・胎蔵界各別の印と明(真言)を示す。ところが二重では一印二明となり、ついに三重では一印一明となって、金胎一致の世界観を提示するに至る。
つまり、このように理解できよう。円爾は大慧に台密系の印信群を与えたが、慧曉には与えた円爾の法流の核となる見西方印信は伝授しなかった。ともあれ、大慧が受けた台密系印信の体系は安養寺に受け継がれていく。いっぽうこれとは別に、大慧は東密三宝院流の体系も伝持しており、これこそが「真福寺印信群」三流の一つとして受け継がれた「安養寺流印信」であった(ただし、先述のように安養寺に直接由来するものとは考えられない)。
つまり大慧の段階では、東密・台密(天台教学全体を含む)が併せ伝えられていたが、さらに加えて禅も伝持され、総合的な仏教の体系が築かれていた。その一端は、『灌頂秘口決』にも明らかである。
ここでは前半で、東密三重相伝の灌頂体系についての理論を示したあと、後半では仏身論などについて、真言・天台教学と禅とのダイナミックな比較が盛んに行われていく。台密教説についてはここでは顕在化しないものの、印信もあわせて考えると、胎金冥合する台密谷流の合行灌頂を特徴とする円爾と、金胎不二に至る東密三宝院流の三重相伝を重視していた大慧の立場とは、かなり近接している上に、禅も加えた三教の会通が図られていたのである。
印信群の相承過程から見ると、大慧自身は東密・台密両流の伝授を承けていたが、次の世代にはそれを分けて伝えていたことが分かる。さらに真福寺聖教に見られる伝承によれば、大慧の弟子寂雲は、密教を能信に伝え、禅を大海寂弘に伝えたという。円爾から大慧に至る流れは、密教における両界の二元的世界を統合し、さらには東密・台密の主要な法流をもあわせて、天台や禅の教学・実践も加えながら体系化を試みる、まことにダイナミックな教学体系を志向していた。
これはもはや単なる「兼修」、すなわち複数の教学系列を並行的に束ねたような雑然とした体系ではなく、それらを相互に関連・融合させてハイブリッドな一元論を志向する高度な思想的達成であると評価できよう。
ところが鎌倉時代後期以降、ここからふたたび教学を切り分け、個別に伝えてゆく傾向が顕著となる。まもなく禅密体系は解体し、禅宗寺院は南北朝期には組織的にも教学の上でも自立を達成していくのである。それは、どのような思想的・時代的要請にもとづいているのだろうか。栄西の時代から、円爾・大慧を通じてさらに能信ら南北朝期を生きた宗教者までを見通した上で、鎌倉仏教論の再構築が求められている。