鎌倉時代における兼修禅と宋朝禅の導入 ― 中世禅の再考≪6≫(1/2ページ)
花園大国際禅学研究所研究員 舘隆志氏
真言・天台を兼ね修する栄西の禅を「兼修禅」と定義し、その対義語として「純粋禅」という学術的な呼称が用いられている。かつて、忽滑谷快天は達磨から六祖慧能・神秀ころまでの時代を「純禅」と位置づけ、その呼称を受け嗣いだ柳田聖山は宋初ころまでの禅を「純禅」と位置づけた。「純禅」の定義は定まっていないが、いずれにしても、公案禅となる宋代の禅は、「純禅」とは呼称しない。しかし、南宋代の禅を導入した鎌倉時代の禅を「純粋禅」と呼称するなら、南宋代の禅は「純粋禅」となってしまう。つまり、「純粋禅」という呼称には学術的な問題があるのである。したがって、以下、特に「純粋禅」の呼称は用いない。
鎌倉時代の禅宗の展開は、大日房能忍、栄西を嚆矢とする。能忍については、詳しくは他の論考に譲るが、鎌倉末期撰述の『元亨釈書』の栄西伝が伝えるところでは、能忍は弟子を中国に派遣し、臨済宗大慧派の拙庵徳光から達磨像を伝授され、日本での禅布教をはじめたが、嗣承や戒検の無いことを誹られたとされる。達磨宗は栄西ともに布教停止の宣旨を受け(百練抄)、後に四散したとされるが、残った系統の多くは、後に現れる道元の門流に合流し、その門流を支え、吸収されていった。
また、栄西は天台僧であったが、2度目の入宋中に天童山の虚庵懐敞から臨済宗黄龍派の禅の法脈を受け嗣いでいる。栄西が帰国後に、禅とともに真言・天台を兼ね修していたことは、『元亨釈書』の栄西伝に記された伝聞の情報である。しかし、栄西の『興禅護国論』巻下にも、真言院と止観院に関する規則が記され、中世の建仁寺の伽藍図には真言院と止観院が描かれている。栄西は禅と真言・天台を兼修していたと見て問題なかろう。
栄西がどのように兼修していたのか。この点を考える前に、次の問題点を提示したい。すなわち、栄西がなぜ兼修という形をとったのかという点である。栄西の『興禅護国論』は天台宗からの批判に答える形で執筆したものとされる。天台宗に如何に対峙するか。それは、この時代に天台宗に所属しつつ一宗としての独立を願う僧侶(法然・栄西・道元)にとって大きな問題であった。真言院と止観院の設置はこの点をも踏まえたものであろう。
また、『興禅護国論』巻上では、「禅宗は諸教の極理、仏法の総府なり」と記し、『興禅護国論』巻中では、「鈍根の人」が「諸教諸宗の妙義を伺い、禅の旨帰を学ぶ」ことは「修入の方便」であると記している。これらの記述からは、栄西の兼修は禅布教のための方便と読み解ける。そして、栄西の『斎戒勧進文』(1204年)の末には、「委曲は願文の旨なら并びに興禅論に在り」と記され、建仁寺建立以後も『興禅護国論』の立場を棄てていない。さらに、以降に撰述された『日本仏法中興願文』と『喫茶養生記』には、『興禅護国論』の立場に関する記述はない。したがって、これを否定する新史料が発見されない限り、栄西の著述からは、栄西は『興禅護国論』の立場を保持していたと看做すことができる。
ちなみに、栄西の新発見史料は、栄西自筆の手紙を除いて、どれも禅の法脈を受け嗣ぐ前のものであり、新発見の史料がどれほど貴重であっても、帰国後の栄西における禅の展開を考える上では用いることができないことは注意しなければならない。
栄西の最晩年に参じた門人に道元がいる。道元は、栄西寂後は栄西高弟の明全に参じ、長らく建仁寺で修行し、建仁寺僧として入宋し、天童山景徳寺で曹洞宗如浄の法を受け嗣ぎ、帰国後、建仁寺に戻った。その後、建仁寺を出て、宇治興聖寺の開山となる。道元の禅は、独自の禅風を加味してはいたが、基本的には天童山の宋朝禅を導入しようと試みていたようである。