文観と禅密 ― 中世禅の再考≪5≫(1/2ページ)
名古屋大人文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究センター特任准教授
ラポー ガエタン氏
文観房弘真(1278〈播磨生まれ〉~1357〈河内で死去〉)は、後醍醐天皇(1288~1339、在位1318~39)の側近となり南北朝期に活躍した僧である。網野善彦の『異形の王権』(1986年)にとりあげられたことからも明らかなように、従来の史学研究における文観は、性的な儀礼を行ういわゆる「立川流」のような真言宗の異端的宗派の大成者といったイメージが普及している。
しかし、近年、文観の多数の著作が確認されてからは、その思想家としての側面が改めて注目され、その「異形」性も見直され始めた。その「異形」性は、むしろ後に破綻することになった後醍醐天皇の政権に、文観が深く関与していたことから、後世に付与されることになったイメージである可能性が高い。
実際、文観の活躍は、日本史上特異視されがちな後醍醐天皇ぬきには語れない。元亨3(1323)年、勅により参内して以来、天皇の側近として活躍し、当時天皇であった後醍醐天皇の護持僧という極めて王権に近い立場で、天皇の宗教的活動を全面的にサポートする役割を担い、東寺長者さらには醍醐寺座主として実質的に当時の真言宗の権力の頂点に君臨する。それと同時に後醍醐天皇の倒幕計画にも積極的に関与することになった。
このことからも、文観は単なる精神的な指南役の立場を超えて、後醍醐天皇を頂点とする権力構造の中枢に位置していたと考えられる。自ら天皇に灌頂を授けただけでなく、天皇の希望に応じて様々な祈禱や儀礼を実修するなど、文観は実際に天皇周辺で多様な宗教的儀式を行い、それに関連する多数の聖教も書写・作成した。建武新政の崩壊後は、後醍醐天皇の吉野潜行にも同行するなど、天皇と運命の浮沈をともにし、天皇の死後も、その皇子であった後村上天皇に仕え、最終的には南朝の行在所であった河内金剛寺で執筆活動の後に没している。
文観の特異性が挙げられるとするならば、最初に西大寺の律僧として仏門に入ったにもかかわらず、西大寺第二長老信空のもとで真言宗の教理・事相を学んだ上で、醍醐寺報恩院流の道順から伝法灌頂をうけ真言僧となったことである。つまり、宗派横断的な教育を受けた上でその思想が育まれ、後の数々の儀礼の創造につながっていったのである。
文観の著作のほとんどが密教儀礼に関する文献であるため、一般的には真言僧であると認識されてはいるが、その思想は、中世に興隆した多様な学問の潮流の影響を多分に受け、中世に登場した種々の信仰・伝説・言説のアマルガム、ひいては到達点の一つの有り様とも捉えられる。本来禅密の文脈で語られることのなかった人物を、あえてこの場で言及することになったのには、このような背景がある。
文観の著作は、密教儀礼の中でも、特に灌頂と如意宝珠に言及したものが多い。灌頂は、そもそも仏縁と人間を取り持つための儀式であり、また如意宝珠は仏の霊験が具現化したものであり、両者ともに信仰のもたらす特殊で偉大な力に近づく手段と考えられる。こうした手段に、最高権力であることを志向した後醍醐天皇が興味を示し、これを南朝の王権の興隆のために利用したのも不思議ではない。実際、こうした著作は、大部分が後醍醐天皇のために執筆されているのである。
思想的には、『理趣経』『瑜祇経』といった密教経典に依拠しており、その注釈から論が展開されている。しかし、文観関連著作のうちで、『瑜伽伝心鈔』(1358年成立)と『秘密最要抄』(1354年成立)の2点においては、禅の思想が直接言及され、密教と比較されている。(ちなみに「文観関連著作」といったのは、実は正確には、文観自身ではなく、文観の弟子であった宝蓮が、書写した師の口決をもとに編纂したものであるからである。しかし、文観の流刑先や晩年までつきそった高弟であった宝蓮が記述したことから、文観の思想を伝えた資料であることは間違いないと考えられる)
『瑜伽伝心鈔』の内容は、西大寺の覚乗からの「以心伝心」についての質問に答えるために、宝蓮が師の文観から適切な解答を請うて書き留めたものである。ここでは、密教の教えの伝承のために根幹的な通過儀礼となる灌頂の儀式において、必ずしも言葉に頼らない伝授の新しい形の一つとして「以心伝心」が位置づけられる。