文観と禅密 ― 中世禅の再考≪5≫(2/2ページ)
名古屋大人文学研究科付属人類文化遺産テクスト学研究センター特任准教授
ラポー ガエタン氏
実は、一般的に禅由来の概念とされる「以心伝心」は、つとに真言宗の文脈においても存在していた。その歴史はかなり早く、空海に既に使用される語彙である。その背景にあるのは、『大日経』に見える「以心灌頂」で、隔絶された空間での師資相承を指している。
ここでは、阿闍梨が心地を開き、直に最極秘印明、つまり究極の秘密の奥義を伝えるのである。空海は、密教において、一人の人間が一人の人間に直接会って伝授を行うコミュニケーションの重要性を論じ、それを端的に伝えるためにこの表現を用いたのである。
一方、禅宗の経典に「以心伝心」が用語として登場するのは、実は10世紀以降のことである。『六祖大師法寶壇經』がその好例である。しかも、禅では、主に言葉の不要論という、文字・言葉の否定のような意味合いで使われる。公案においては、言葉と論理をつくしたレトリックの虚しさが諧謔化し、揶揄されている。
これは、密教の奥義の伝承で、祖師空海をはじめとする先人の言葉が重要視され、言葉を尽くして伝えられた複雑な教説や論理が大きな役割を果たしているのとは正反対である。つまり、密教における元々の「以心伝心」は、禅宗とはかなり異なる位相を指し示していたことになる。
文観においては、禅における「以心伝心」が否定されるのではなく、密教を頂点とする文観自身の思想にとりこまれ、彼の創造する儀礼の教理的根拠を裏付ける材料の一つとして受容されている。それは、宝蓮が編纂したもう一つの聖教『秘密最要抄』から、より明らかに理解される。
ここでは、「禅宗門人」の説として、文字の否定である「不立文字」の概念について言及がなされる。その内容は、渡宋し後に宮中で禅を広めたことでも有名な円爾弁円(1202~80)の講義がその弟子である痴兀大慧(1229~1312)によって記された『大日経義釈見聞』などと共通するところがあることから、その影響が示唆される。
円爾弁円・痴兀大慧の流れ(いわゆる聖一派)が醍醐寺三宝院流に浸透していたことを考えると、醍醐寺と深い縁のあった文観が、ここでの研鑽を通じて禅の説に触れた可能性が高い。しかし、『大日経義釈見聞』では、円爾弁円・痴兀大慧が直接的な悟りを導く禅宗の説の優秀さを明言しているのに対し、文観は『秘密最要抄』で、円爾弁円や痴兀大慧を「真言と禅の『以心伝心』に関する思想を混同する学者」と批判している。文観は、必ずしも、禅の先人のテクストを忠実に踏襲するのではなく、密教を頂点とする文観なりの世界観の枠組みで禅の教えを受容し、密教的な解釈の優越性を同時に訴えている。
このような密教テクストにおける禅の教説への言及は、必ずしも文観において突然始まったことではない。すでに鎌倉時代には、天台の直談という相伝法の成立過程で、円爾弁円の教説を利用し、言葉から離脱するという意味での「以心伝心」を顕密仏教に取り入れる動きがみられる。中世の天台僧は、文字と言葉という従来の媒体に拠った伝達手段から脱却し、「実相」を直接伝えることを目指すようになった。
こうした禅宗の教説を意識する顕密仏教の動向は、禅宗の影響力が政治・社会双方に浸透するにしたがい如実に現れていくものと考えられる。14世紀中葉に現れた『瑜伽伝心鈔』と『秘密最要抄』における現象も、その好例であり、禅と密教のこうした関わりを時系列的に追うために、重要なケースの一つと捉えられる。文観のように、権力の側にあり、その影響力がある程度担保されていた僧であっても、その思想を開陳するにあたり、禅の概念や考えを意識する必要があった(と弟子が判断した)背景からも、室町以降に影響力を浸透させていた禅の在り方が垣間見られる。
中世禅籍叢刊に収録された聖一派をはじめとする中世の禅密テクストの公刊により、宗派観にとらわれない中世日本宗教史の多面的な諸相の発掘と探求が今後も期待されるだろう。