鎌倉時代後期の南都北嶺と禅宗 ― 中世禅の再考≪4≫(1/2ページ)
関西大教授 原田正俊氏
現代社会における仏教諸宗派のあり方は、お互い不干渉であるとともに協調が当然のことと思われている。教学、思想的にも宗派間の相互理解、あるいは、無関心もあって、見解の相違が社会問題化することもない。宗派間の論争「宗論」は顕在化しない時代である。
しかし、日本の中世においては、宗教と政治・社会が密接に関係したこともあり、諸宗派間には、緊張した関係があった。平安時代以来、南都六宗・天台宗・真言宗は、国家の保護を受け、教学の上でも国家を守護し王法(政治・国家体制)と不可分の存在として、その地位は高く影響力が大きかった。近年の学界では、当時の呼称によって南都六宗・天台宗・真言宗の総体を顕密八宗としている。
顕密八宗の寺院は、平安時代末、院政期には、上皇や公家から多数の荘園の寄進を受け繁栄を極めた。南都北嶺と呼ばれるように、延暦寺、興福寺は大衆勢力も増大し、武力装置として機能した。嗷訴と呼ばれる朝廷への圧力、寺院間の抗争においても大衆は武力を発動して顕密八宗の力を世に示した。南都北嶺の大衆勢力は武士とも対峙する存在であり、中世寺院の姿は、近世以降と大きく異なるのである。
鎌倉時代になっても、顕密八宗の優位は続き、八宗の他に宗派独立を認めないことを主張していた。一般に「鎌倉新仏教」とよばれる新たな仏教の運動を起こした法然や親鸞、栄西・道元といった人々の動きも、鎌倉時代前期においてはまだまだ小規模な集団であった。新たな仏教運動に対しては、延暦寺をはじめ顕密八宗から朝廷に働きかけがあり、朝廷から弾圧が加えられた。建久5年(1194)、栄西と大日房能忍は、禅宗を広めることを禁じられている。建永2年(1207)には、念仏弾圧があり、専修念仏が禁止され、法然・親鸞が流罪に処されている。
禅宗の動向についてみていくと、建長5年(1253)、北条時頼の禅宗保護政策によって、渡来僧の蘭溪道隆を開山とする建長寺が創建された。この後、鎌倉には渡来僧が多数招かれ、禅宗が繁栄していく。
鎌倉における大規模な禅寺、建長寺や後の北条時宗による円覚寺の造営をみて、武士の宗教としての禅宗のイメージも作られてきたが、これは間違いである。注目しなければならないのは、嘉禎元年(1235)、摂関家の九条道家により東福寺が造営され、開山として円爾が招かれたことである。円爾は、南宋に渡り禅を学び帰国した人物である。大陸仏教への関心は公家社会でも高まっていたのである。
京都において、東福寺の存在は大きく、円爾は多数の弟子を育て、門下は臨済宗聖一派として全国に拡大していった。円爾は、後嵯峨上皇の前でも禅を説き、公家社会で禅宗が一段と注目されるようになった。
天皇の中でも禅宗に関心を持つ人物が出てきて、亀山上皇は、弘安4年(1281)に、入宋経験もある無本覚心を招いて受戒している。無本覚心は、紀伊国由良興国寺を拠点として禅を説いていたが、亀山上皇はいちはやく禅宗の名匠を見いだしていたのである。亀山上皇自身は、真言宗の仁和寺了遍僧正を戒師として出家するが、当時、活発に活動していた西大寺律宗の叡尊や禅僧たちにも関心を持っていたのである。
亀山法皇が起居する東山の禅林寺殿で怪異が起こると、東福寺第3世であった無関普門を招かれた。無関は禅林寺殿で安居して怪異現象を鎮めることに成功している。正応4年(1291)、無関は、亀山法皇によって禅林禅寺(南禅寺)の開山として迎えられた。無関は、この年示寂し、南禅寺第2世には規庵祖円が就任した。この後、南禅寺では僧堂をはじめ伽藍が整備されていく。このように、円爾をはじめとした禅僧たちの教えは、着実に公家社会、京都に定着していったのである。