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鎌倉時代後期の南都北嶺と禅宗 ― 中世禅の再考≪4≫(2/2ページ)

関西大教授 原田正俊氏

2018年10月19日

円爾については、この連載の中でふれられる大須真福寺文庫の中にも、円爾の東福寺における講義の聞き書きを弟子の癡兀大慧がまとめたものなどがある。「大日経見聞」「瑜祇経(見聞)」等が書写本として伝えられ、円爾は真言宗で重んじられる経典を講義していたのである。草創期の東福寺は、九条道家の意向で、禅・顕・密を兼ね備える寺として造られたが、円爾の活動はこれに応えるものでもあり、13世紀の禅僧たちは、真言密教、天台密教などにも通じ、さらに禅を説く立場であった。こうした姿勢は一見、諸宗協調的な姿勢としてみられるが、禅宗の立場を強調すると南都六宗・天台宗・真言宗を刺激することになった。

とりわけ、東福寺、南禅寺と公家社会の外護によって大規模な禅寺が造営されると、南都北嶺側の危機感は高まった。

京都から追放など禅宗への批判・弾圧

文永5年(1268)には、延暦寺大衆は、禅寺賀茂の正伝寺を破却している(「東巌(慧)安禅師行実」)。南禅寺が造営されると、天台宗側では大衆が集会を開き決起して、亀山法皇が御所を禅寺に改めたことを非難し、朝廷にこの非を訴えている。延暦寺側は、法皇が天台宗・真言宗をさしおいて専修念仏を好むことにも批判を加えている。また、東福寺の円爾が禅宗を天台宗・真言宗の上に位置づけることを問題としている(『渓嵐拾葉集』第9巻)。

永仁2年(1294)には、円爾の教えを受けた巷間の宗教者、ササラ太郎・夢次郞・電光・朝露が異類異形の輩として京都から追放されている(『渓嵐拾葉集』第9巻)。また、絵巻物『七天狗絵(天狗草紙)』には、禅宗の影響を受けた巷間の宗教者、自然居士への批判と京都からの追放が描かれ、これは、先のササラ太郎と同一人物とみられる。禅宗の影響は、公家・武家のみならず広く民間の宗教者にも及んでいるのである。

亀山法皇の息子、後宇多上皇の時代になると、禅宗保護の政策は継承された。もっとも、後宇多上皇は密教修行に励んだことで知られており、真言密教に傾倒していたことも事実である。後宇多上皇は、禅寺、嘉元寺を東山に造営して、九州を拠点に活動していた南浦紹明を開山として迎えている。嘉元という元号を冠した寺であり、規模の大きな禅寺建設を計画していたとみられる。後宇多上皇は、同時に、大和国達磨寺の復興を進めようとした。達磨寺は、聖徳太子と達磨の邂逅を伝説として持つ禅寺で、当時は、この荒唐無稽とみられる伝承も歴史的な事実として見なされていた。

嘉元寺については、延暦寺の反発が起こり、造営は中止された。達磨寺についても、興福寺は、嗷訴を起こし、武装勢力である六方衆が達磨寺の伽藍を焼き討ちしている。興福寺は、達磨寺復興のための勧進を行う責任者であった仙海の流罪も要求し、徹底的に大和国内の禅宗の活動を抑え込もうとしたのである。鎌倉時代後期は、第2次の禅宗批判と弾圧が強まった時期ということができる。禅僧の思想的な兼修とともに、専修念仏や禅宗をめぐるこうした動向も含めて中世仏教の全体を捉えることが必要である。

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