行基信仰と叡尊教団(1/2ページ)
山形大教授 松尾剛次氏
今年2018年は、行基菩薩(668~749)が誕生して1350年目に当たる。そのために、行基をめぐって種々の記念行事が行われており、本稿もそうした動きの一環の一つである。
行基といえば、奈良東大寺大仏の建立において、大きな役割を果たしたことで知られるが、行基の本領は、民衆のために、橋、堤、池、寺院、布施屋(運脚夫などの収容施設)などの建設に努めた点にある。すなわち、社会救済活動家であった。このことにまず注意を喚起しておきたい。
行基の活動の遺跡は、現在においても残っているが、一例をあげれば、大阪府岸和田市池尻町の久米田寺前の久米田池がある。その池は、周囲延長2650メートル、45・6ヘクタール、貯水量157万トンもある大阪府最大の溜池である。行基によって灌漑用の池として神亀2(725)年から天平10(738)年までの14年もの歳月をかけて建設された。灌漑面積は27・7ヘクタールという。平成27(2015)年10月には世界かんがい施設遺産に登録された。筆者は、たまたま今年の6月に久米田池を訪ねる機会があったが、巨大な池のほとりに立つと、行基の民衆救済の強烈な思いが想像され、古代にタイムスリップした感がしたものだ。
それでは、行基とはいかなる人物であろうか。伝記をまず簡略に紹介しよう。行基は百済系渡来人の高志氏の出で、和泉国(現堺市)に生まれた。彼は、15歳で出家し、飛鳥寺で仏教を学んだ。いわば飛鳥寺所属の官僧(官僚僧)となった。しかし、慶雲元(704)年には生家を寺(家原寺)にすると、官僧を離脱し、布教活動と社会救済活動を開始した。
そのために、養老元(717)年には「僧尼令」違反として禁圧の対象になっている。読者の多くは、民衆へ布教活動を行って弾圧を受けたと聞くと不思議に思われるかもしれないが、官僧は、衣・食・住の保障がなされるかわりに、「僧尼令」によって民衆布教は禁止されていた点に注目すべきである。官僧は、寺において鎮護国家の祈祷を行うことを第一義としていたのである。
しかし、そうした弾圧にもめげず、行基の説法の場には、しばしば千人を数える人々が集まったという。さらに、行基は、先に述べたように、弟子や信者たちの協力を得て、橋、堤、池、寺院、布施屋などの建設に努めた。こうした行基の力(動員力、集金力)を聖武天皇は大仏建立に利用し、行基は、その功績により743年には大僧正に任命された。こうしたことにも、古代国家仏教の時代といっても、行基らの努力によって仏教が民間へ広まっていたことが読み取れる。行基の活動は多岐にわたるが、以上のようにまとめてみた。
さて、本稿に与えられた課題は、行基に対する信仰の展開を見ることにある。とりわけ、奈良西大寺叡尊をいわば祖師とする叡尊教団と行基信仰との関係に注目する。というのも、叡尊教団こそ中世における行基信仰の主な担い手だったからである。叡尊らは、行基を自分たちの社会救済活動のモデルとした結果、叡尊教団によって行基信仰は宣揚され広まっていったといえる。
覚盛・叡尊ら4人の僧は、嘉禎2(1236)年9月、東大寺で自誓受戒を行った。受戒とは、釈迦の定めたという戒律護持を戒律に精通した僧(戒師という)の前で誓う儀礼である。戒師の側からは授戒という。叡尊らは、すでに東大寺戒壇で、10人の戒師の前で受戒していたが、戒師たちが戒律を護持していない様を見て、戒師による東大寺戒壇などでの授戒を拒否し、仏・菩薩の前で、自ら戒律護持を誓う自誓受戒を行って戒律復興運動を開始した。ここに叡尊らは、官僧身分を離脱し、遁世僧として活動を開始した。